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小説 『人生のお土産』

『生にも死にも意味なんてないよ、有限の時間が創り出したエゴだもん』

 ふと生まれた意味について考える。誰にも生を受けた意味がある、と人は言う。わたしはその言葉を信じないけれど、せめて生まれた意味だけはあってほしいとただ祈り請う、女神の願いだったのかもしれない。そうであったのならば、その願いは美しくあり続けなければならないと信じたい。
 私には才能も、努力する才能もなくて、せめてできることと言えば文字を紡ぐくらいだな、とつくづく思う。
 わたしがわたしを救うただ一つの術であり、この言葉を託されたあなたがわたしを救う助け舟。漂っているだけの瓦礫を見て、あなたは舟と思わないのかもしれない。それでよかった。あなたがこの文字を追っている、それだけで誰かの命は救われたから。
 世界に生まれてしまった代わりに、この祈りを、まだ未熟なわたしと世界で一番美しいあなたに捧げます。
 映画みたいな運命だって、きっとあなたにも起きるよ。



 思えば恋なんて、人生で一度したかしてないか、それくらいだった。恋と欲求は全くの別物だな、とつくづく感じる。
 歳を取り経験を重ねるごとに、人の感情を読み取ることがなんとなく容易にできるようになっていた。何気ない気遣いとか、たまに送るサプライズの花束とか、相手が喜ぶであろうことをするために気を配っていた。自分の気持ちを蔑ろにして。その度にほんの少しずつ私の心が削れていくのがわかった。
 愛していたら、その人が望む行動をとるはず。そのことだけ考えていた。行動に気持ちが付いてくるなんて、勘違いも甚だしいよ。
 確かに私は愛されていた。私も相手を愛していたと思い込むことで平穏を保っていた。けれども、私の愛は擦り切れ続けて無くなってしまったから、一方的な別れを告げられた。掌の先の液晶から聴こえる声は、泣いていたような気がする。その頃の記憶はあまりない。
 それから時が経ち、愛が足りなくなった。死にたかった。愛されたかった。愛されたかったのに好きになれなかった。冷えきった身体に効く薬は愛しかない。人間を恋ふ気持ちは、肌に触れたい、手を握りたい、といった欲求とは全く別物だ。

 「あー、さむっ」
 恋の暖かさとは正反対の、私を消し飛ばしそうな冷たい風に吹かれてふと我に返る。心も身体もすっかり冷えきってしまったことが耐えきれなくて、睡眠薬で感覚を飛ばした。
 そういえば今日はクリスマスイブという日で、家族や恋人と知らない誰かの誕生日を祝いあう日らしい。みんな、私の誕生日も祝ってくれてもいいのに。別に祝われたいわけじゃなくて、日々の日常が苦しいから特別を求めてしまうだけなのだけれど。
 不安に効く薬に火を点ける。瞬間、白い吐息が空気に混じって消えていく。火を上げて溶けていく薬を見ながらぼんやりと、公園のベンチに横になる。
 こんなことを始めたのもいつからだろう。この自然の中なら居ても許されるような気がして、身体を冷やすことが自分を傷つけているようで心地いい。心が少し楽になって、ずっとこのままならいいのに、なんて思う、世紀末のクリスマスイブ。
 音もたてずに指先が溶けていく。空の色は……心の中身を半分にして開いたときに見たような満点の星空。
 たすけて。綺麗。
 たすけて、死にたい、
 だれか……掬って……ねえ……
 わたしの星は……どこに、たすけて………



 目覚めると、水色の瞳、橙色に灯る指先。今にも溶けてしまいそうな優しい音色に照らされた瞬間、それをひかりだと思った。私の瞳は彼女の色に輝いていた。人間たちは、それを恋と呼んだのだろう、と名前の無い感情を許した。

『大事な……なく……た、よご…胸の………、…けて消え……じのあと、あの………たいにときめいて』

 彼女の心地よいどこか他人行儀な歌声にぼんやりしていると、その声の主はこちらを見てびっくりしたように、少し身体をよろめかす。
 「わ、生き返った」
 「あ、えっと、あの、私……」
 ああ、やってしまったな、と思う。見ず知らずの人間に迷惑をかけてしまうことは慣れてしまっても、申し訳なさと不甲斐なさにはやっぱり慣れない。
 彼女は、私が降り積もる雪の中、薄着で道端に倒れていたことと、私の安全が確認できるまで監視してくれていたことを話す。
 「あぁ……本当にすみません……。私、どうお礼したらいいか……」
 「お礼なんて大丈夫だよ。とりあえず家近いから、温かい飲み物でも飲んでいきませんか」

 それから、彼女の名前は紗月ということ、同じ大学の同学年でありながら歳上であることを知った。
 「汐ちゃん、素敵な名前だね」
 「ありがとうございます。わたしの名前、お気に入りなんです」

 ふと昨日のことを思い返そうとしてみる。だけど、やっぱり思い出せない。確かに現実に存在していた時間のはずなのに、その記憶にアクセスしようとしても、ファイルの中身は空っぽで、頭がもどかしい。それがあたかも遠い遠い日の記憶であったかのように、薄い記憶を手繰る。
 記憶がなくなっても、あの星空だけは網膜に焼き付いている。多分、あの景色だけは一生忘れられないんだ、と確信した。死ぬ前に見る走馬灯の最後の1ページは星空だって、知ってしまったことが少し怖くて唇を噛んだ。

 眠剤で眠りを失った。眠りにつくために眠剤を飲んでいるのだけれど、睡眠をする方法も忘れてしまって、機械的に意識を飛ばす魔法に溶けることが日常に溶けた。それは本来の眠りとは違うと、いつも思いながら糖衣錠に縋る。感覚を失うのと同時に、眠くなる感覚も失った。それは一日の終わりを迎える中で、あまりにも欠けてはいけない感覚だった。
 眠剤を飲んで横になると、頭がくらくらして脳の中身をかき回されるような気分になる。熱いコーヒーの中に角砂糖を落として、マドラーでくるくると溶かしていくような感覚。
 ただの錠剤では不安や思考に勝てない。眠れないことが怖くて、同じように眠るという行為そのものが怖くなった。

 「でも、本当は眠りに救いを求めてるのでしょう?」

 私が拙い言葉を紡ぎ、彼女に心の弱い部分を教えると、彼女はいたく簡単に私を抱きしめてくれた。誰よりも優しく心を撫でて、私を守ろうとしてくれた。水は星よりも早く頬を駆け抜けた。その理由は、今はまだわからなかった。
 彼女は私のことを深く詮索しようとしなかったが、私はこの人になら曝け出してもいいのかもしれないと思った。例え全部を教えても、彼女なら肯定して守ってくれるような、そんな安らぎがあった。

 「汐ちゃんは今、くるしくて、消えちゃいたい?」

 死ぬことに憧れていたのはいつからだっけ。子どもの頃は何にでもなれるって、暗い日々は大人になったら勝手に変わるんだって、確証が無いことをただ信じていた。いつからか自分の平凡さに気づいて、誰も私を変えてくれないことを知って、周りとの違いに苦しむようになった。
 それを知ってからも何も変われない自分への嫌悪感に耐え切れなくなくって家を出た。それから環境と一緒に私も少しずつ変わっていったけれど、変わったからとて何かになれることはないことを知った。知ってしまった。私の掌の中には何も残っていなかった。少しの絶望を抱いて眠るようになった。

 苦しみに慣れてしまうと、少しの苦しみすら苦しみと感じなくなってしまう。
 「心臓に穴を開ける手術をしたの。最初は痛かったし風が染みるけどさ、今はもう慣れたよ」
 「だいじょうぶだいじょうぶ、今はもう穴も塞がったし、見ての通り元気だよ」
 嘘。本当は空いたまま。身体を開いたら塞がっているように見えるけれど、本当は中心の空洞は空いたまま、塞がる兆しもない。

 好きな本に、人生は癒えない傷を庇って進んだ道の先で、大丈夫かもしれない、と思った瞬間に余生になる。と書いてあった。私の心は私の人生が余生になることを許さない。なぜなら、今まで生きてきた私自身を否定したくないから。私のことを特別だと思い込みたいから。
 思春期あたりから薄々気付き出していた、私は平凡だという事実のことが許せない。私だってあの子みたいに輝けるのだって、私だって。

 「無理だって気づいてしまったから死んでしまいたくなったのでしょう?」

 やめて、私のことをそんな憐れむ目で見ないで。私は大切なもののためなら、私のためなら、いくらでも傷つく。生きたくないけれど、馬鹿な振りして時を誤魔化してたあの頃の私に戻るのはもっと嫌だ。そんな人生を送るくらいなら空を飛ぶ方がマシなの。

 「生きたいから死にたいの、汐ちゃんは星みたいだね」
 月の満ち欠けに導かれるように、心の花が咲いた。

 きらきら。私も星になりたかった。星を見て綺麗だと思うような、そんなテンプレみたいな人間になりたくなかった。
 「だけど、もう遅かったみたい」
 星になれる季節は17歳。その季節を過ぎたらもう自然な光は放てない。後は全部人工的な光。全部嘘。桜が春しか咲かないように。桜は綺麗だからみんな真似して作って、一年中咲けることになったように。
 だから星になるのは諦めて、光を全部消そうとした。作られた光に価値なんてないから。
 「でもそうだったら、永遠に輝けるね。星だって、もう死んじゃってるかもしれないし」
 そんな光なんて放ちたくないよ。全部嘘の光じゃん。
 「嘘じゃないよ、全部君だから」
 全部君。指先に火が灯るような感覚。心の煉瓦が崩れて落ちていく音がした。
 「こんな私でも、星になれるの?」
 「なれるよ、絶対」
 だから私の光になって、って言ってほしかったな。

 「ねえ、お腹すいてない?ごはんでも食べに行こうよ。お金のことは気にしないでっ」



 彼女に連れられて向かったのは、私は行ったことが無い町外れの喫茶店だった。
 「私の話ばっかりしすぎちゃったね」
 広くない店内にテーブル席がしー、ごー、ろー、7つ。先客の子供連れがコーヒーを飲みながら楽しそうに談笑している。
 「ぴーす」
 2名様ですね、と席に案内されメニューを開くと、「チョコバナナパフェにしようかな、ミルクティーいちごパフェもいいな」という楽しげな声が聴こえる。住宅街の中に潜む店の窓からは、平穏な時間が流れていて心地いい。
 「あ、汐ちゃん、さっきのは2名様、ってことだよ?」
 「さすがにわかるよ、急に店員さんにピースし始めたら変だもん」
 「2人でご飯に行くと、合法的に店員さんにピースできて楽しいんだ」
 「3人でピースしたら威力業務妨害になったりするもんね」
 「え、そうなの」
 「いや、冗談だよ」
 信じるんだ、と思いながら笑っていると、「もう、」なんて怒った風の紗月ちゃんが頬を赤らめていてかわいらしい。かわいらしいというより、愛おしい。
 「一応先輩なんだから、あんまりからかったらダメだよ」

 こうして友人、とご飯に来るなんて何時ぶりだろう。欠けた記憶を、足りない記憶を遡る。朝の活動に参加できなくて辞めたサークルの、ふたことくらいしか話したことのない子に誘われて食べたハンバーグ。お互いの生活はどうとか、サークルの現状とか、楽しく無難な時間を過ごして、それから連絡はない。
 その前は、きっと、きっとそう。心に鳴り止まなかったあの泣き声。最後に、1回だけだから……なんで、帰らないでよ……。
 そういえば、彼女がワガママを言ったことなんて、それまで一度もなかったな。言わせなかったんだ。嘘の優しさで包み込んで、思う存分甘えさせていたな。何回「好き」って言ったかなんて覚えていないけれど、一回も「好き」だと思ったことは無かった。でも、今の私は彼女の影に縋り続けている。失わなければ気付けないものがあるということ、気付こうとしなかった罪、大きな傷をつけた罪。忘れてしまった舌の味。「たすけて」。私の「たすけて」の声を拾ってくれる人はもういない。いや、今私の目の前にいる彼女は……。

 「たすけるよ」
 「え?」
 ふと我に返る。ジャズが流れている店内は何事も無かったかのように、若い店員がコーヒーカップを2つ片付けている。どうやら、無意識に声が漏れてしまっていたようだった。とりあえず何に対してだろう、と思いながら「ごめんなさい」と口にする。
 「急に考え込んで苦しそうにしてるから、びっくりしたよ。とりあえず水飲んで?」
 促されたままに運ばれたお冷を口にする。冷えた水は身体の奥まで一瞬で流れわたり、熱くなっていたわたしの心を冷やしていく。察するに、紗月ちゃんは何度か私に声をかけてくれていたようだった。
 「ごめんなさい、心配かけて。でももう大丈夫だよ!お腹空いたな、何食べようかな」
 「大丈夫なら、よかったよ」



 『それから先、覚えてることなんかひとつもないんじゃないかって。だったらこんなの、何の意味があるんだろう、って。くだらない疑問なんですけど。』
 『三角関数も四段活用もミトコンドリアも、どれもいつか、全部忘れてしまう。』



 何分か待つと、先に紗月ちゃんの注文したチョコバナナパフェとクリームソーダが運ばれてきた。
 「パフェだ、お腹すいてないんですか?」
 「あ。私、朝ごはん食べてたから。パフェは軽食に入るよね」
 「入ります。コーンフレークとかでかさ増ししてるパフェはまさにご飯です」
 「そういえば確かにそんな季節だね。今年は見た?」
 「見てないです、家にテレビないので」
 「私も今年は見てないや……。それで、たすけて、って言うのは?」
 「え?」
 「さっきの。ハンドサインじゃないでしょ?」

 そのときの私には、それが一昨年の真空ジェシカのネタのことだということに気付く余裕はなかった。
 虚を衝かれた。紗月ちゃんは優しいから、まさかそんなことにまで突っ込んでこないだろう、と慢心していた。この人は、まさか、

 「救ってください。私と一緒に死んでください」
 自分で考えるより前に私のそれは、口を零れ出していた。そう、それはまるで涙のように。
 「それは無理かな」
 「じゃあ、私を殺してください」
 「それも無理だね、汐ちゃんはそれで幸せかもしれないけど私は怖いし」
 私は黙って、瞳で問いかけた。
 「ごめんね」

 クリームソーダは水死体。紗月ちゃんが飲んでいるそのクリームソーダになりたい。私がバニラアイスになって、メロンソーダに溶ろけられたら。それなら、甘くなってくだけなのに。クリームソーダにバニラアイスの血が滲んで、白く泡を吹いている。紗月ちゃんにストローで血が吸われて、水位が低くなっていく。そのまま消えたらいいのに。

 しばらく待っていると、私が頼んだ焼きキーマカレーとアイスコーヒーが運ばれてきた。一年前と比べて随分と味覚が鈍感になったから、私は濃い味付けの食事を好む傾向にある。食欲はないのだけれど、辛いものはわかりやすいし、やっぱりおいしいものはおいしい。
 「紗月ちゃん、パフェおいしい?」
 「おいしいよ、ひとくち食べる?」
 「食べます」
 促されるままに放り込まれたそれは、わたしには甘すぎた。ホイップクリーム、チョコソース、スポンジ、甘い、あまい。あまいね。
 ずっと何かに依存していて、その依存しているものに生かされている感覚があった。思えばそれが依存しているということだったのかもしれないけれど、そうでなければ私が私でなくなってしまえるように思えた。そうでなくても、私が一人で生きられている時は私に生かされていた。私にとっての好きとは、それが好きな私が好きなだけだった。恋にしても、愛していたのではなくて、愛されている私が好きなだけだった。あますぎたね。
 口の中が鬱陶しくて、コーヒーを飲み干した。



 帰り道、雲の間から顔を出した太陽に照らされる。太陽なんて久しく見ていなかった。
 「確かに永遠の愛ってあるのかもしれないけれど、それを掴めるのってほんのひとにぎりの人間だけだと思う。紗月さんは死ぬまで一生ひとりの人を愛せる自信ありますか?」
 「ないかな。人って簡単に裏切るし、裏切れるし」
 「わたしもそう思う。だから、幸せなうちに完結させたいな、って。きっとそれは永遠の幸せになりえるし、永遠の愛の証なのかな、って信じたい」
 「ふふっ、汐ちゃんは雪の結晶みたいだね。繊細で溶けちゃいそうで、でもそれが美しいと思うよ」
 「紗月ちゃんは太陽みたい。私を照らしてくれて、それでいて遠い存在に思えるから」
 「私は月だよ。あ、名前のことじゃなくってね」
 紗月ちゃんはにこりと笑ってこちらを振り返る。私はその瞳に切り出す。
 「私、ひとりの大切な人を傷つけてしまったんだ。それも一瞬じゃなくて一年間。その罪って悔いても償い切れなくて、しかもそれを自分が苦しくなってから思い出してるの、ほんと都合いいよね」
 「確かにその人は傷ついたかもしれないけれど、汐ちゃんもそれまで同じくらい傷ついていたんだよ。それに、誰かのために捧げた祈りって必ず無駄にはならないよ。例えそれが自分のためであったとしても、あなたを美しくしていく。」
 私は黙って頷いた。
 「この世って、人間を試す場所なんだって。仏教徒のおばあちゃんが言ってた。私は全然信じてないけどね。人間には、それぞれ課せられたような因子があって、現世はそれを断ち切れるかどうかの試しの場所なんだって。罪を償おうとすることもそう。私は逃げることも悪くない選択だと思うけど。」
 だとしたら、私が断ち切るべきもう一つの因子は依存だ、と思った。普通の人間は持っている臓器を、私はいつの間にかなくしてしまっていた。その臓器の代わりになるものが依存。私にとって依存は充足。そして、紗月ちゃんにも、きっと……。
 ひとりで生きて、なおかつ誰かを愛せたのなら。そんな考えが脳裏をよぎってしまって、慌てて消そうとする。私は臓器を失ってしまったのだから、生きられないのだから。あなたの全てを知れたらいいのに。

 「でも、幸せのハードルってどんどん高くなっていくのだよね。小学生の頃は校庭で走り回るだけで楽しかったのに、恋人だの、結婚だの、子供だの。一般的な幸せに囚われないことは大切だと思う。だけど、歳をとるにつれて、ハードルと反比例に輝きは失われていくんだよね。それは避けられない老いなのだけど、私はどうしても耐えられない」

 人間のピークは20歳。私の身体には、20歳になったら消えてしまう魔法が刻まれている。今まで生きてくる為に必要だった魔法であり、その魔法を解かないと私は永遠に消えることはできない。
 愛する人と愛することが許されない世界に、誰かが好きな音楽を簡単に貶せてしまう世界に、どんな価値があるだろうか。世界の裏側を見てしまった私には、もう表側の集団に溶け込むことはできない。世界には、知らなくたっていいこともあるの。

 「でも、苦しんで生きることも悪いことじゃないって思うな」

 街はいつの間にか夕暮れ、空が綺麗な赤橙色に包まれていた。
 「あのね、汐ちゃん。よかったら、これから一緒にケーキ食べない?」
 「ケーキ?」
 「今日、クリスマスだから」
 そういえば、さっきの喫茶店は全然クリスマスのムードなかったなあ、とかパフェの後にケーキは重くないのかなあ、とか、ふと思う。洋菓子店に入るとクリスマスソングが流れていて、今日がクリスマスであることをついに実感させた。

 『あれは一年前の公園で会った少女だ、サンタクロースが来ないと泣いてた、パパを待ってた』

 私にとって紗月ちゃんは、サンタさんがくれた贈り物なのかな。紗月ちゃんにとって私は何なのだろう。贈り物まではいかなくても、公園に行ったお土産、くらいに感じていてくれたらそれでいい。

 嬉しそうな表情でショーケースを眺めている紗月ちゃんの横顔に胸が高鳴る。顔立ちとか、控えめな優しさとか、やっぱり太陽より月らしいかも、なんて思った。彼女も、誰かに照らされて生きてきたのかな。
 「ねえ、いちご食べれる?」
 「すきだよ」
 「じゃあ……すみません、ショートケーキの5号をひとつで」
 「え、ホール……?」
 「食べれるでしょう?」
 この人のことが少し恐ろしくて、また愛おしくなった。



 「結局全部は食べきれなかったね」
 「今日は甘いもの尽くしで幸せだったよ、しかも明日も食べられるなんて」
 この人は本当に甘党なんだな。どうやってその体型を保っているのか、もたれた胃に聞いてみる。ともかく、クリスマスを誰かと過ごせることが嬉しいし、紗月ちゃんにとっても一人じゃないクリスマスが楽しいものであればいいな、と思う。

 「私も今、幸せです」
 紗月ちゃんはこちらを見てにこりと微笑んで、私に諭すように呟く。
 「汐ちゃん、幸せは少しずつでも集められるよ」
 「苦しみから逃れられるとまでは思わないけど、少しは生きていてもいいかな、って思いました」
 「生きてていいんだよ、無力だって、平凡だって。汐ちゃんの選択はぜんぶ間違いじゃない。その選択が世界を敵に回しても、私は汐ちゃんを信じるよ」
 指先を結びあったような安心感に身を委ねてしまう。私は泣いていた。もう紗月ちゃんに涙を見せるつもりなんてなかったのに、それが流れ星のように頬を伝っていくのがわかった。ぼやけてはっきりと見えないけど、それは私にとって紛れもない光だった。
 「汐ちゃん、救えなくてごめんね」
 「私はもう十分、紗月ちゃんに救われたよ。だから、私はだいじょうぶ。ありがとうね」

 身体に降りしきって冷たく滲む雨ならば、傘を差せば身体を暖めることができる。心に降る雨には、簡単に傘を届けることはできない。きっと私の心の雨はやむことはなくて、小さい折り畳み傘ならすぐに破れて使い物にならなくなってしまうだろう、と思う。今日も雨は冷たい。
 その傘になり得るものが愛なのだろう、と今なら信じられる。必ず最後は愛が勝つ、と誰かが歌ったように、言葉や態度では届けられない感情を愛は心に届ける。愛し合うとは、お互いの心に傘を差し合うことなのだろう。

 「紗月ちゃん、あなたのことを愛してます。」

 救い、すくい、誰かが私を掬いあげてくれることを願って生きていたけれど、本当の救いは全部、心の中にあった。それは例えば好きな音楽だったり、言葉だったり、美味しかった食べ物だったり、大切な思い出だったり、人生にありふれてしまって生活の一部になった「あたりまえ」のもの。
 人間なら誰しも持っている救いの手。その救いの手に気づけなくなってしまうことが、救いを救いと思えなくなってしまうことが、苦しみなんだ。仮初のお面を被って歌うことを辞めてしまったあの子も、死んでしまったと思い込んでいたけれど、本当は私の心の中で生きている。その鼓動に気づくことが随分難しくなってしまったな、と誤魔化す。

 「汐ちゃん、ありがとうね、うれしいな」

 「私ね、本当は生きてないの、あなたのために生きてるから。だから、すこしのお土産だけあげられたら、もうそれでいいんだ、私は。」

 「生にも死にも意味なんてないよ、有限の時間が創り出したエゴだもん。恋や愛だってそう。でもあなたの優しさを受け止められたこと、うれしいし、すこし誇らしいな。どんなあなたも素敵だよ。」

 にこりと微笑んだ紗月ちゃんの表情が満月のように澄み切っていて、思わず見つめてしまう。その光に吸い込まれてしまいそうになって、逆らわずに目を瞑った。
 意識が、おちていく。



 目が覚めると、私は自室のベッドの上にいた。あれ、いつの間に眠っちゃっていたのかな。時計の短い針は右上を指していたけれど、まだ太陽は昇っていなかった。そういえば紗月ちゃんの連絡先とか聞いていないな、と思いながら外に出る。鍵は掛けない。ゆっくりと歩を進める。向かう先は考えずとも決まっていた。
 私は大切なものを失った。永遠は、喪失でしか表現できない。埋まった心の穴が、またぽっかりと空いてしまった。寂しさや悲しさを、苦しみでごまかす、屋上。
 でも、こんなぼろぼろの穴を抱えて生きる日々だって、私は愛してるよ。
 冬の夜の空気は冷たくて、こんな私に寄り添っているようにも思えて、すこし暖かい。暑さで身体に汗が滲む。
 地上を見ると、いまならうまく飛べそうな気がして涙が止まらなくなった。上空50メートル、あと一歩踏み出せば、私は大空に飛び立つ星になる。
 ふと空を見上げると、星が見たことの無いくらい綺麗に瞬いていた。満天の星空がぼやけて、視界が光でいっぱいになる。

 『信号が青になったら、
      いっせーのの合図で星空に飛び込んで』

 苦しんでもがいてもうまく生きれない私、一歩だけ進めたよ。
 星が綺麗だったから、思わず抱きしめた。

 『藍原汐さんへ、あなたの安寧を祈っています。泉紗月より。』



あとがき
 この小説は、わたしがはたちになるまでに、形になるものを残しておきたくて書いたものです。はじめて長いお話を書いたので、読みぐるしいところもあったかもしれないけれど、ここまで読んでくれてありがとうございました。
 あしたが来ませんように、と願う日々だけれど、星はあなたのように輝くよ。春、あなたのために花が降りますように。

2023.3.31 梅野楓依


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