いや、ちょっと向かう方向が違いませんか?

こんにちは。ゆりりうすです。
今朝、私は不正をした匿名の議員を「豚だ!肥え太った豚だ!」と寝言で叫んでいたらしいです。
この間、ヤフーのコラムで車椅子の人が映画を観ることへの、イオン側が不適切な文言があったことを全面的に謝罪した、という記事に対してのコメント欄が大荒れでしたね。
それに答えた、タレントの人が
「いや、車椅子の人を責めるのはおかしくないですか?」
という疑問に対しても大炎上してて、ゆりりうすは「うーん。」なのです。
大方は、車椅子の人へのアドバイスであって、責めている訳ではない、ちゃんとコメント読んでいますか?的なことを書いている人が多く、色んな方がいらっしゃいましたが、何か言う相手が違っているように感じました。
うーん、何から言おうかな?
昔、ゆりりうすが20代だった頃に、結構色んな外国に行きました。
見聞を広めるのはとても面白い。
それで、その頃のゆりりうすが、気が付いたことが2つ。
1つは、軍人が多いな、ということ。
もう1つは、車椅子とか障害を持っている人が街に沢山いるな、ということでした。
それでね、あらためて日本に帰ってから街を歩いてみたんだけど、車椅子の人とか、ほとんど見ませんでした。
外国にあれだけいて、日本にいないわけない。
つまり、日本では基本的に「車椅子の人はなるべく迷惑にならない様に外に出るなよな。」なスタンスなのだと、理解しました。
昔なら、座敷牢の発想ですね。
ゆりりうすだけが、こう思っているのではないと思いますよ。村上春樹さんのエッセイにも、この問題に触れている回があります。そうとう前です。
介添人をつければ、良いじゃないですか?とか、映画館の人だって、そんな訓練を受ける時間をさくのは大変だ、とかそれは業務内容に無いのでは?とか、色んな意見があるなあ、と思いました。
でもね、これ全部言うべき相手が違っているんじゃないかと、私は思ったわけです。
何で、外国では沢山の車椅子の人を見ることが出来たのか?
それは、車椅子の人が介添人をつけなくても外に出られるように街が作られていて、1人で色々なことが出来るようになっているんです。
ゆりりうすが乗るバスに時々乗ってくる男の子は、知的障害を持っています。
その男の子がよくブツブツと言っているので、よくよく聞いてみると、
「迷惑をかけちゃいけません、迷惑をかけちゃいけません…」とずーっと言っているのです。
この子は、どれだけ「迷惑をかけちゃいけません。」と親なり、周りの大人なりに言われているのかなあ、と思ってちょっと考えてしまったよ。
日本って、殊更「迷惑をかけるのは駄目。」というのが強くて、これが強いと、人に助けてもらわなくては生きられない、声の弱い人にとって、とても苦しい社会ですよね。
炎上覚悟で言うけど、迷惑はかけても、かけられてもOKなんです。
日本にだって「お互い様」って、良い言葉があるでしょ。
誰だって、迷惑をかけたり、かけられたりしながら、生きているんです。
生きるって、たぶん一生そういうことです。
それは、駄目なことではないと思うんです。
いつも、ゆりりうすが言っているけどさ、1人でも2人でも生きられないんです。沢山の中で生きられるんです。
生意気なゆりりうすですが、他の考え方をするのなら、今、やっと弱い立場だった人が声を上げることが出来るようになってきたのではないですか?
色んな人、LGBTQや、女の人や、在日外国人や、障害のある人が。
でも、やっと今なので、過渡期なんだと思います。
過渡期の時は、様々な意見が出て、肯定的な意見も出れば、否定的な意見も出て。
でも、それでいいと思います。どんどん意見を出して、話し合えば良いと思います。
あっ、肝心の言うべき相手のことを書いていませんでしたね。
つまり、今、メチャメチャなことをやって、かつ未だに国民のことを舐めている、政治家に言うべき話のような気がします。
彼らは、私達の税金を自分たちの為に湯水のように使っているんですよ。
それを止めて欲しいけど、そんな金があるんだったら、ぜひとも、この国中の映画館、だけじゃないけど、ひとまず映画館を全て車椅子の人も、そうじゃない人も、等しく使えるような仕様にしてもらったらどうですか?
大声を出せる人はいいです。でも、今まで出せなかった人がやっと声を上げた時、出てくるのが、弱いもの叩きであってほしくないんです。
ブルーハーツの歌じゃないけど、「弱いものがさらに、弱いものを叩く」という状態になっていませんか?
これは今の政府の思う壺ですよ。自分たちで潰し合いです。
本当に叩かなげればいけないのは、ズルをして暴利を貪っている政治家達ではないですか?
インフラ整備が大変だ、なんて言うのは筋違いです。
だって、あっという間に原発をあんなに、素早く作れるんですよ。出来ない話じゃない。
そして、多種多様というのなら、インフラ整備された、気持ちの良い国で、みんなで助け合いながら生きる方が、国民みんながストレスをいっぱい抱えないで済む社会ではないでしょうか?
駅で、車椅子の女の子がエレベーターで、何度も待たなければいけない状況とか、ベビーカーのお母さんを邪魔する状況とか。
あのね、外国で見た光景ですけど、きちんとした形の重そうなベビーカーを押しているお母さんが、バスに乗ろうとした時に、乗客が当たり前のように降りてきて、大人4~5人でベビーカーをバスの中に運び入れていましたよ。
そのお母さんも、それを当たり前に受けて「ありがとう。」と言っていました。
日本は発想が逆で、ベビーカーのお母さんが大変なら、少しでも軽く、ワンタッチで組み立てられるベビーカーを作っちゃう。
それも良いけどね、それでも1人で子供とベビーカーを乗せて、荷物も持って、何ならまだ小さい子供も連れている人を見ると、ベビーカー開発じゃなくて、日本人の優しさ開発をした方がいいんじゃないかと思っちゃう。
責める相手を間違えてはいけない、と思います。まずは、あの不正をやっている人達です。
私達は、1円の漏れもなく税金を払っているんだから、そのお金は1円も無駄に使わないでいただきたい。
弱い人達に使うのは、無駄でも何でもないからね。
「キックバック」っていう言葉が、せっかく米津玄師さんの歌でいいのがあるのに、彼らのせいで、イメージダウンですよ。
それでも、この車椅子の人がワガママだよ、と言う人もいるだろう。
でもちょっと待ってください。なぜそう断言出来ますか?
例えば、バイオリニストの高嶋ちさ子さんのお姉さんはダウン症です。
昔からよく「ダウン症」の人はみんな天使なんです、と言う人がいるけど、高嶋ちさ子さんはそう言いません。
「もう家の姉、本っ当に性格が悪いんだよ!」
なぜそう言えるのか?彼女はずーっとお姉さんを長年見てきたからです。
私達はまだ、車椅子生活の人をそんなに見ていないでしょう?
なのに、なぜそれがワガママだと言えますか?沢山見て、初めてそう言えるのでは?
それがワガママ行動なのか、その人にとって必要な行動だったのかは、私達に判断のしようがないではないですか?
私が20代の頃、自分がよく使う駅で、1人の車椅子の人が
「すみません、階段を上がりたいので、手伝ってください!」
と人混みの中で叫んでいたら、すぐに大人の男の人が4~5人集まって来て、車椅子の人を階段の上まで運んでいました。その間、わずか5分くらい。
とても気持ちの良い光景でした。
例えば、インフラ整備すぐには無理。その間どうすんだ?という疑問もありましょう。その間、例えばこの間の映画館ならば、お客さんもみんなで手伝ってしまえば、良かったのではないかと思いました。
助け合いです。
色んな議論が出る時、必ず「自分がそういう立場だったら、どうすんだ。」とか「それが、自分の娘(あるいは息子)だったら、同じことが言えるのか。」という言葉が出ます。
でも、今回、なかなかその言葉が出て来ませんね?
なぜでしょう?
なぜ、同じように考えられないのかしら?
これから、空前の大高齢者時代が来るとき、まず思い浮かべるのは、自分が車椅子に乗っていたら、を想像するのかと思っていました。
私だって、今に車椅子生活になるのなら、なるべく自分1人で色々やりたいですね。
でも出てこない。本当になぜなんだろう?
皆さんの意識改革でもあることですよね。けれど、意識改革ってそう簡単に1年や2年で出来るものでもないと考えます。なので、これをきっかけに本当に沢山みんなで声を出して、話し合っていきませんか?
ゆりりうすは、とっても議論が好きです。でも、この国でそれをやろうとすると、相手が逃げるか、その前に誰かに止められてしまうことが多くて、ストレスが溜まります。
稚拙でも、上手じゃなくてもいいじゃありませんか。喧嘩じゃないんです。みんなで言葉で話し合いをして、沢山色んな人の話を聞きたい。匿名じゃなくて。
今日のゆりりうすはだいぶ、吠えたね。でも、ちょっと緊急にこの話をしたくなったので、お許しください。
ここで、2人の人の言葉で今日は終わりにしたいと思います。
「何もせず、何も言わず。
不正に立ち向かわず、抑圧に抗議せず。
それで自分たちにとっての良い社会、良い暮らしを求めることは不可能です。」
(ネルソン・マンデラ)
「自由でないにもかかわらず自由であると信じている人ほど、深い奴隷状態にあるものはない。」
(ゲーテ)
以上、ゆりりうすでした。
次はヤンキー話、出来るかな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?