見出し画像

【吉田遼って何だ? 改】



 高校2年の5月のある日のこと。


 自分が何でも出来るようになった、天才になった、そんな高揚感が急に訪れた。どうしてそうなったのか、今でも理由が分からない。


 だけど悪い気はしなかった。そのとき私はなぜかダンスに夢中になっていて、気づけば自分の部屋でEZ DO DANCEを何度も踊っていた。親は心配そうな目でこちらを見ていた。当たり前だ。今まで普通だった息子が、急に踊り出したら不安にもなる。そのときは異変を異変と思わず、何事もないかのように私は眠りについた。


 そして次の日、私は地獄を見た。


 布団から体が起き上がらない。いや、体を動かす気力が完全に枯れていた。生命力が低下し、ただ呼吸するのが精一杯の、生きる屍のようだった。かろうじて立ち上がり、死地に赴くかのような足取りで1階のトイレへ向かった。吐き気が止まらない。動くたびに精神が削られているようで、私は自衛のため半日近く寝たきりで過ごした。


 不安で症状をネット検索してみると、それは躁鬱(そううつ)の疑いがあるとのこと。躁とは人格が変わったかのように気分が高揚している状態だ。鬱は…鬱だ。それが交互にやってくる病気を躁鬱と言う。つまり昨日が躁だったので、今日は鬱ということ。どうやら1日周期で躁と鬱が入れ替わるらしい。

 ちなみにその周期は3年経った今でも変わらない。そのサイトを見て私は少し安堵した。名も分からない症状に翻弄されるのは、余計不安なのだ。訳も分からない敵と戦うよりは素性が知れた敵と戦う方がいい。


 見かねた母が心療内科に連れて行ってくれたのだが、病院では症状について話すと別の病院に行くよう促され、4つの病院を転々とした。最後に行き着いた病院では、来て数分で入院を強く勧められた。こちらは何も話していないのにやけに入院をさせたがっていて、怪しさ満載だ。

 その様子に嫌な予感を察知したのか、母は私に帰るよう説得しようとしていた。そのとき私は、躁状態で常に人の言葉の裏を分析し、なぜそう言うのか、騙そうとしているのではないかと疑っていた。どちらを信じるのが正解なのか分からない。


 結局その日は家に帰ることになった。家に帰ると父方の叔母が家で待っていた。夜遅くにも関わらず、私の異変を聞いてわざわざ遠くから駆けつけてくれたのだ。


 そこからはよく覚えていないが、私は叔母に散々悪口を言っていたらしい。その失礼な態度に母は怒っていたが、叔母は全て受け止めた。疲れたのか次第に意識が遠のき、やがて私は深い眠りについた。


 目を覚ますと、私はいつの間にか2階の自室で横になっていた。どうやって運んだんだ…?当時体重が60kg近くあったぞ…?


 枕元にはお菓子とゼリーが置いてあった。叔母が買ってくれたものらしい。丸1日何も口にしなかったので、とりあえずゼリーを流し込む。…苦い。流石にこの状況で高校に行ける訳もなく、その日は欠席。何かをする気力がある訳でもなく、ずっと眠っていた。


 その夜、再び地獄が訪れた。


 理由も無く死のイメージがまとわりつく。目をつぶっても耳を塞いでも、どうすることも出来ない恐怖。脳内では、暗闇の中に一本のひもQが浮かんでいた。それが今にも千切れそうでとても不安になる。ひもQが切れたら、自分は死ぬんじゃないかという気持ちになった。


 40分ごとに、激しい躁と激しい鬱が襲いかかる。これを急速交代型(ラピッドサイクラー)と呼ぶ。年に数回現れる症状だ。眠りたくても頭が興奮状態でとても眠れる状況ではない。ついには気持ち悪くなって吐こうとしたが、ほとんど何も食べてなかったので胃液しか出ない。母は何も言わず隣にいてくれた。そうして2人眠れぬまま夜が明けたのだった。


 その日は何も食べられなければ、足もおぼつかない。そして何者かに監視されているような感じがして、ある訳が無い監視カメラを必死に探していた。終いには虫が辺りを駆け回っている幻覚すら見えた。そんな状態だったので、私は昔からお世話になっていた近くの小児科に連れられた。


 そこでは90歳のおじいちゃん先生が診てくれた。後ろの壁には、先生が何らかの賞を取っていたという新聞記事が貼られていた。確かにこの歳まで働いているのはすごい。脈を計られる時に触れた先生の手は、とても暖かかった。生きる力強さと、溢れんばかりの優しさがそこにはあった。


 そうして数分後、私はインフルエンザだと告げられた。躁鬱とインフルエンザを併発していたらしい。そりゃあ地獄だ。体も心も死にかけていたのだから。そうして薬をもらい、家に帰ったのだった。


 1週間の登校停止となったので、心の中は寂しさでいっぱいだった。この症状を乗り越えるのに必要なのは、いかに気を紛らわせるかだ。人と話し続ければ鬱のことは少し忘れられる。ただ平日ということもあって、話し相手がいる訳も無ければ親と話そうという気にもならなった。そこから1週間の間、何度も躁と鬱がやってきた。踊っていたかと思えば、寝たきりになったりするのでもう訳が分からない。


 自分は躁鬱病じゃないのか?思い当たる節しかない。母に胸の内を明かすと、「きっとインフルエンザでおかしくなっていたと思うよ」と言った。そんな訳ないだろ。インフルエンザなんかで人のメンタルは死なない。もしかしたら母は気遣ってこう言ったのかもしれない。だけど当時の自分は、家族ですら自分のことを理解してくれない、そう捉えてしまった。


 自分の居場所が無くなったように思えた。信じられるのは自分だけ。そこから高校を卒業するまでの間、私は家族とコミュニケーションを取ろうとしなかった。無視しては睨みつけた。それが2年近くも続いていたので、両親はきっと胸が張り裂けんばかりの苦痛を味わっていたと思う。本当に申し訳ない。


 とても長い1週間で、1日が2倍くらいの長さのように感じられた。そしてやっと高校へ登校することが出来た。病み上がりで体温が高かったのか、私は持参していた扇子を扇いでいた。その様子を見てチラチラと女子の目線が集まってくる。


 それからの授業では、躁状態だったためか異様に発言していた。今まで挙手すらしない生徒だったので、周りは困惑していた。無理も無いだろう。大人しいクラスメイトが急にハイテンションで話したり、爆笑したりしていたのだから。そのくせ次の日にはテンションが低く死んだような顔をしていた。


 日を追うごとに、クラスの女子たちから距離を置かれているのを肌で感じ取れた。今まで普通に話していたのに。キャラ変とでも思ってたのだろうか。こんな際どいキャラ変あってたまるか。


 しかしクラスの男子たちは違った。みんな話しかけてくれたり、一緒にご飯を食べてくれた。多分躁のときにたくさんボケて笑わせたから認めてくれたのかも。男子って単純だなあ。でも好きだわ。


 それからというもの、悪い意味で学年の注目の的になったらしい。休み時間に見知らぬ女子生徒がこちらを覗いては「あいつ?」「気持ち悪」という言葉が耳に届く。目がやたら合うので私に言っているように思えた。なぜ聞こえるような大声で話すんだ。というか何だ気持ち悪って。ただご飯食べてるだけやないかい。


 行動の一部始終を見られている。こんな状況でご飯が食べられる訳が無い。その女子たちの行動を鬱陶しく思ったのか、ちょっと仲良くなっていたとあるイケメンが放った言葉が、「あいつらうっせーな。吉田、トイレ行くぞ」。惚れるわこんなん。世界一かっこいい連れションだ。こうして男子たちに徐々に心を開いていったのだった。


 ちなみに大学生活の中で、昼食がたまにカロリーメイトなのも少食すぎるのもこれが原因。人と一緒にご飯食べるのも、常に緊張状態になるのでハードルが高い。特に対面での食事はかなりきつい。


 このイケメンの件から徐々に気分の波が収まっていった。ただ、電車が怖くて2週間くらいは親の車で送り迎えだった。学校での女子の反応のせいか、人の視線が怖いし、常に悪口を言われているような気がしていた。この頃から人前で話すのがとても苦手になった。視線を感じたくない。どうか見ないでほしいと、心の中で願うばかり。


 そんな中でも唯一、地理の授業だけ楽しかった。変な先生と男子生徒多めに加え、普通に話せる数人の女子。選択授業なので人数も10人程度だった。そこでは生徒と先生のボケが飛び交っていたので、自分も自然体でいられた。躁状態のときに私は、蛇行を英語で答えるよう言われたときに、メアンダーではなくスネークウォーキングと答えた。周りは爆笑していたことが今でも忘れられない。というか初見でメアンダーなんて答えられんわ。


 それから英語のグループワークでは女子と組むことが多々あった。最初は怪訝な顔をしている子がいたが、それとなくボケたりツッコんだりして笑わせるうちに誤解が解けていった。もちろん全員の誤解が解けた訳では無いのだが。それが躁鬱発症から半年後の秋の出来事。その半年もの間は…、考えたくもない。




 そうして私は高校を卒業するまでの間に躁鬱の苦しみや、人と仲良くなりたくてもなれないというやりきれなさを感じながら過ごしてきた。親を無視し、コミュニケーション自体を避けて生きていたので、大学に入学する頃には人との話し方を忘れかけていた。言葉も発さなければ風化する。感情と一緒に人に何かを伝える力も封じ込めてしまった。


 普通に話せないことに今も非常に憤りを感じている。こう見えてプライドが高い人間だ。ほんとは出来たことが出来なくなるのが、死ぬほど嫌いだ。躁鬱にならなかったらもっと大学の仲間たちと楽しく、積極的に会話が出来ただろうと思う。そんなifが何度も頭をよぎる。



 なお、大学進学以降の躁鬱の症状について説明すると、1年の半分が躁でもう半分が鬱。半年普通で半年地獄である。せめて半年天国にしてくれ。躁のときは人間が大好きで、鬱のときは人間が苦手になる。たまに死のイメージが頭に貼り付いて離れないことも。

 

 常に緊張状態で、相手が話したことを全く記憶することが出来ないため、メモ帳は手放せない。だから下手な事を言って、こいつ聞いてないなってなるのが怖いため、自ずと口数が減っていった。ついには、自分が何を考えているか分からない状態にまで陥った。


 そんなアップダウンの差によって、私はどれが本心か分からなくなった。だから意見や考えを話しているとき、常に嘘をついているかのような罪悪感に苛まれる。自分が虚言癖なのじゃないかと不安にもなる。多分メタ認知が足りてないだろうなあ。


 今までカラオケに誘われても断ったのは、躁鬱のせい。テンションが上がった分だけ鬱が強まるため、歌った次の日にはダウンしているからだ。ストレス発散どころか溜まってしまう。



 ここまで読むと何も幸せな事が無いように見えるが、大学生活は辛いことばかりだけではない。大学での数々の経験はどれも一生の宝物にまでなり得る。例えば2019年に行われたサマキャン。あの時は常にチームでコミュニケーションを取り合ったり、いかにサマキャンをより良いものにするか考えていた。気が紛れるしコミュニケーションを取ることで自分の考えを話す練習にもなった。探求学習的に言うと、安心の土壌が作られていたのだろう。サマキャン当日には驚異の変容を遂げ、周りの仲間達にも認められることになった。

画像1


 不思議なことに、そこから1年の後期の授業が始まるまで躁鬱の症状が無かった。つまり、富岡でのプレ地域留学や家島での事例研究では、私が本来の姿を見せていたことになる。こんなコミュ力あったっけ? と思うくらい喋っていた気がする。その反動か、後期の授業はだいぶ休んだ。鬱が酷かったのと、グループワークで何も貢献出来ないのが地獄だった。


 とはいえコミデザで色んな人と関わり、サマキャンやSCHなど様々な試練を乗り越えてきたからか、少しずつ人と話せるようにはなってきたと思う。正直、この大学4年間をリハビリ期間と捉えている。普通に自分の考えが言えて、心の底からコミュニケーションを楽しめるようになるために。


これにて話は終わり。

 これを書いた理由は、昨今のショッキングなニュースが原因という訳ではない。書こうとしたというより、気づいたら書けていた。途中に何度も気持ち悪くなったけど、書ききった。この行動が正しいのかどうか分からないけど、プラスに動いたらいいなあ。こんな気分が重くなる文章を書いたくせにおこがましいと思うけど。


 この文章を読んで避けられたりするのは傷つくので、普通に接してほしいなあ。テンション低い時は、今日重い日なんだなーって思っててほしい。


 最後にこれを読んで、おいおい大丈夫か?ってなった人は、LINEでもメッセンジャーでも、この投稿のコメント欄でもいいのでメッセージください。超嬉しいし超恥ずかしいけど、フィードバックはほしい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?