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ある詩人のイディオレクト4

【引揚】

 昭和二〇年八月一五日。玉音放送は釜山で聞くことになった。ここ、朝鮮海峡では多くの訓練をしたものの、戦闘らしい戦闘はほとんど行われなかった。関沢が行った南方などは凄まじいありさまだと伝え聞くが、新聞を見ても勝った記事ばかりで実際の様子は分からなかった。

 昨日、佐藤伍長が部屋を訪ねてきた。珍しいことで、内容は釜山行きの連絡だったが、最後に、「細川、この島に来た時の手帳を持っているか」と問うた。

 手帳は、詩作の礎(いしづえ)だから丁寧に保管してある。

「あのころの記録がちょっと見たいのだが、貸してくれないか」

 上官の申し出に、否も応もない。荷物がまとめてある箱から取り出して渡した。

「ありがとう。いずれ必ず返す」
と言われたが、結局そのまま敗戦の混乱に巻き込まれてしまった。

 敗戦後すぐに朝鮮半島へ米兵が乗り込んできた。武装解除され、その時に私物のほとんどが没収された。もちろん、雄太郎が書き溜めた詩はすべて米軍の手に渡った。

 一〇月、韓国からの連絡船で博多港に引き揚げた。皆一様に疲弊した顔をしていたが、九州が見えると少し柔らかい顔になり、多くは目に涙を溜めた。各人抱えた事情はさまざまなのだろうが、生きて故郷の地を踏めるという喜びがあふれていた。

 博多から汽車に揺られて滋賀県日野に着いたのは、さらにその三日後だった。

 疲れた体を引きずって、実家に帰ると玄関で母が正座をして待っていた。横に座っていた妹が言う。

「母さまは、雄太郎は秋には必ず帰ってくる、っておっしゃってた。そのことを信じていたら、本当に兄さまが帰ってきた」
と言葉を湿らせた。

 戦後の日本は混乱のるつぼにあった。食糧や生活に必要な物資はもちろん、燃料不足も深刻な問題だった。日野町のほど近くに亜炭の鉱山があり、細川はここで近江鉄道の日野駅まで運ぶ職についた。亜炭とは石炭の中で最もその度合いの低いものだったが、そんなものでも戦後の日常を支える重要な燃料となった。

 仕事の合間の最大の楽しみはラジオだった。戦中、社会の隅に追いやられていた童謡が復権したのだ。「みかんの花咲く丘」や「里の秋」が流され、皆の口をつく歌となって全国に広まった。

 その翌々年、佐藤伍長が好きだと言っていた「あの子はたあれ」がテイチクからレコード化された。ラジオでも流され、人口に膾炙することとなる。続いて、戦中にレコード化された「ちんから峠」がヒットし、毎日のように日本中を楽しませていた。

 時を同じくして、細川は美津という女性と見合いの末、結婚することになった。戦地で婦長をしていたこと、歌うことが好きだということが肌に合った。後に、三人の子どもにも恵まれた。

 このときはまだ、亜炭のトラック運送の仕事があったが、今後の身の振り方については白紙だった。妻も得て、家族ができていく中で何が正しい道なのか。

 復員の情報が広まるにつれ、東京のレコード会社からプロの作詞者にならないかと誘いを受けることもあった。もちろん胸中にはもっと童謡を書きたいという気持ちはある。しかし、依頼されたテーマに沿って詩を書く――もちろんそういう人がいてこそ成り立つ世界があることも知っていたが、それが三三歳の自分が取る最良の道なのか。

 あちこちに童謡を書きながらも考えを巡らせた。親友の関沢ならなんというだろうか。昨年京都に復員した連絡はもらっていたものの、南方でマラリアなどに罹患しているらしく、まだ顔を合わすことのできる状況ではなかった。

 懊悩する中で、関沢からはがきが来た。

 それには単刀直入に、「目指す人物はいないのか」と書かれていた。――いる。群馬の横堀眞太郎、恒子夫妻だ。自ら教師という職を持ちながら同人誌を立ち上げ、地元に根付きながら後進となる童謡作家を育てる。これこそが理想となる生き方だった。故郷で職をさがし、同人誌を立ち上げて後進を育てる。こうしたビジョンが見えた瞬間に、この選択肢が最良なんだと肚に落ちた気がした。

 続く文面にはこう記されていた。

「東京に出るのも、もちろん厳しいと想像できるが、滋賀のふるさとで根を張って生きていくのもそれなりに厳しい出来事があるだろう。どちらの道を選ぶにせよ、雄ちゃんの選択は正しいと信じている」

 仕事は、妻・美津を紹介してくれた人が野洲川の農業水利事業所の庶務課のクチを教えてくれ、そこに得ることができた。方針が決まると、風をはらむ帆船のように人生が進みだした。美津も遅まきながらの再出発を喜んでくれているようだった。

(滋賀県文学際に投稿したものを改稿)

                            〈続く〉

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