日輪を望む7―一貫斎魔鏡顛末
春が感じられるようになったその晩も、井戸端にいた。鍜治場でもある鉄砲の工場は、常時火がたかれるため、真冬でも汗みずくになる。いつもよりも遅く、一人で汗をぬぐっていると、押し殺した泣き声が聞こえた。
見回すと、屋敷の端に植えられた杉の木陰で菊が泣いていた。手早く替えの着物に袖を通して声をかけた。
「こんな時間にどうしたのだ。家人が待っているのではないか」
と問うと、
「おっ母が、今日は遅くに帰って来いって」
少し話を聞くと、込み入った話に聞こえたので、工場の入り口、女人禁制ではない土間に招き入れ、一貫斎の耳にも入れるため、奥から呼び出した。
「さて頭領も一緒に、もう一度聞かせてくれるか」
事の発端は、去年の秋のこと、総髪の道者が訪ねてきたことに始まる。菊の家に、一杯の水と、少々の食糧を無心してきた。信心深い菊の母は、それらを奉じた。その時に、御礼として病弱な母に温湯薬を処方し、簡単な術を施した。以来、体調がよくなってきたというが、菊の目にはそう見えてはいなかった。
そんな道者が今晩、菊の家に再訪するという。
「どの刻限に来るのだ」
「いつも暮六つ(午後六時半)には……」
「もう過ぎておるな。分かった。一緒に行こう」
「そんな、頭領様にお出ましいただくほどのことは」
「よい。永くうちに手伝いに来てくれているのだから、身内も同然だ」
まだ寒風が吹く中、綿入れを羽織った一貫斎、私、菊の三人で彼女の家に向かった。そして脳裏に引っかかるものを感じた。
近づくと、家から祭文が漏れ聞こえた。
「邪魔するよ」
口にしながら扉を開ける。
入ると、広い三和土(たたき)兼作業場がある典型的な農家だ。
そこに、総髪、着流しで帯締めの男が立っていた。後ろに鉄杖を持った僧形の二人を引き連れている。略式の祭壇を前に、数珠を掲げ、声高に唱えていた。ひと段落すると、こちらを向いて一言放つ。
「どなたじゃな」
髪に白いものが混じっているが、年のころは、不惑を回ったくらい。我々とそう変わらないだろう。相対した一貫斎が声をあげた。
「この家の長女、菊を雇っているものだ。この国友村には寺も神社もあり、出入りの薬師もいる。菊の母にもかかりつけ医がいたはずだが」
道者は鼻で嗤う。
「加持祈祷も、薬も効果が出てこそすべてじゃろう。その社寺や薬が、このものの体を癒しておるのか。そなたが、名乗らぬゆえ先に申し述べるが、拙者、寺田宗鑑と申す遊行僧じゃ」
「それは失礼した。国友村鉄砲鍛冶年寄脇、国友一貫斎藤兵衛と申す」
傍目には分からないくらいかすかに、宗鑑の右眉が上がった。そして、鉄杖を構えようとした配下に右手をかざして抑えた。
「これはこれは、この村一番のお偉方、能当様でございますか」
口調は丁寧だが、態度は全く改まっていない。特に「この村一番」のところはゆっくりと述べ、こちらの神経を逆なでする。
能当とは、鉄砲を作るときに一貫斎が彫り込む字名のようなもので、文字通り能(よ)く当(あ)たるという品質の良さを保証するものだった。つまり、この男は、一貫斎のことをよく知っている。
「加療中は部外者の立ち合いを禁じている。出て行ってもらえますか」
口調は丁寧だが、こちらには全く敬意を示していない体で宗鑑は言い切る。
「先にも申したが、この村の顔役の一人に名を連ねておる。村外からの怪しい風体のものをそのまま受け入れるわけにはいかぬ」
「それは道理の通った意見じゃが……。では村外からくるすべての行者を把握しておられるのかな」
「もちろんすべてではない。しかし、この村は昔に比べ住人も減少し、結束は高まっている。余所者はある程度素性が分からないと」
懐手に体をこちらに向けた宗鑑は、口の端を上げて返す。
「一貫斎殿は江戸に何年もおられたのですね。どれほどの人に会われたのですか? 今おっしゃられたような決まりが、どれほど通じるとお思いで。また昨今、異国からもたくさんの船が参っております。この国に満ちる人はこれからも増えましょう」
「といって、神意を盾に、村々を蹂躙するはどうかと思うが」
「ほう、蹂躙とな。何か証拠でも」
宗鑑の声が一段と低くなる。
祭壇へ歩を進めた一貫斎の前に、二人の僧侶が出た。鉄杖に手をかけており、金属がこすれる音がした。そのさまを見て足を止め、供えられた鏡を指して言う。
「例えば、その魔鏡の仕組みを知っているとしたらどうじゃ」
「これは、神意を伝えるものじゃから魔鏡と呼ばれるのは心外じゃな」
それまで、息をのんで様子を眺めていた菊の母の「寺田様、もう今日はお帰りください」とのかすれた言葉に一貫斎が続けた。
「何なら、同じようなものをこしらえて進ぜようか」
「望むところよ、それではわしらはこれより諸国を回る故、三月後、水無月の晦日夕刻、夏越の祓の日に、この村の日吉社の北、姉川の河川敷にて検分を行う。万一、この鏡と同等のものを用意できなければ、一貫斎殿が大切にお持ちの、月輪を望める遠眼鏡をお渡しいただこう」
「委細承知つかまつった。水無月晦日じゃな。ではその折に。佐平次、行くぞ」
菊の家を出て、一貫斎の屋敷に足を向けながら、
「また安請け合いを、作らねばならぬものが増えたではないか。めどが立ってきたとはいえ、反射望遠鏡に加えて神鏡とは……」
内心争いごとから逃れられてほっとしていたため、砕けた口調で話しかけると、厳しい顔をこちらに向けた。
「お主、気づいておらなんだのか」
「何をだ。寺田何某が、又兵衛の師匠の工房を潰した本人だということか」
「それはもちろんそうだが、その先だ」
夜寒の風も、随分と間遠になり、近くに春の息吹が感じられる。一貫斎が何を言わんとしているのかは分からない。沈黙していると、言の葉を継いだ。
「控えていた二人の僧が持っていた鉄杖、あれは仕込み杖だ。加えて身のこなしから恐らく元武士。つまり、二人ともだんびらをぶら下げてきている。これは実力行使も辞さないということだ」
「あの場で、全員斬られても文句をいえなかったということか」
「それ以上だな。最悪、我々が行かなければ、菊の一族は行方不明、あの家には今晩から連中やその仲間が出入りするようになっていたかもしれん。菊に遅れて帰ってくるよう母に言わせたのは、宗鑑だろう。たまたま我らが行って、こういうやり取りになったから今日の結末になったものの……。それに、わしが反射望遠鏡を作っていることも知っておったの。先ほど言っておった二品に加えて、新しいものも必要か」
「厄介ごとを抱え込んだのは、変わらんか」
話を理解すると背筋に汗が浮き、夜風が急に骨身に染みるようになった。
(滋賀県文学際に投稿したものを改稿)
〈続く〉
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