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白刃1

【狗】
 襖を開けて、多くの武士が出てきた。
 それぞれの手に抜き身や刺又を持っている。

「曲者じゃ! 出合え、出合え」

 屋敷に声が響く。老公の「戸田はどこじゃ」という言葉が聞こえた。標的の老人との間に幾人もの侍が入り、遠のく。

 数本の刺又が身体に当たり、押さえ込もうと周りに人が押し寄せた。口々に「彦根ものか!」「脇差を取れ」などと殺気だった声が響き、体の自由が奪われた。首に冷たいものがあたり、瞬時に熱に変わった。切られた――。

と思った瞬間目が覚めた。

 今、屋敷の床下に潜んでいることを思い出す。

 着物は汗まみれだった。首に巻いていた手拭いで軽く汗を拭き取った。もう三日目なので、暗がりの中でもそれが丁稚羊羹のような色になっていることに気付く。

 周りに目をやると、濡れ縁の先に朝の光が見えた。思ったよりも長く眠っていたようだ。畳越しに屋敷の様子をうかがうものの、数人の気配を感じるだけで、それほど多くは詰めてはいないようだ。先代とはいえ、親藩大名藩主の隠居屋敷にしては人が少ないように思えた。彦根藩士が単身で攻めてくることなど、微塵も想像していないのだろう。

「あと少しだ」

 こころの中でつぶやき、こぶしを握った。今日は万延元年、葉月の十四日だと確認する。

 明晩、この屋敷で観月会が行われる。仇敵・徳川斉昭(なりあき)が催す仲秋の名月を愛でる宴で、近隣の客を招いて供応するのだという。客たちが帰り、警備が手薄になるその晩、必ず事を成し遂げなければならない。井伊の殿様の辱めを雪ぐのだ。

 懐に入れた巾着を着物越しに触る。中には、茶杓が入っている。父・小西貞徹(ていてつ)から受け継いだものだ。

 彦根藩の下級武士であった貞徹は、部屋住みの身分で彦根で勉学に励んでいた藩主になる前の井伊直弼(なおすけ)公に数度茶を点ててもらったことがあるという。正月など酒に酔うと、必ずこの話をしたものだった。私は幼かったため、よく覚えていないが、一度、父を中心に我々家族を芹川沿いの桜の下での野点に呼んでいただいたのだとも聞いていた。

 一〇年ほど前、琵琶湖に雁が渡ってくる晩秋の頃、夕餉の後に父が我々三兄弟を呼び出した。といっても小さな長屋のこと、襖一枚隔てた父の部屋に招かれたのだ。床の間の前で、三人を前に違い棚から桐の箱を取り出した。中から出てきたのは、懐紙に包まれた茶杓だった。

「これは、若いころ殿から拝領した茶杓、もちろんお手製だ。同い年とはいえ、わしのような足軽にも手ずから茶を点て、話を聞かせてくださった。お前たちにもよく話している野点の折じゃ」

 すぐ下の弟・寛蔵は、手に取った茶杓をしげしげと眺めている。
「これをいただいた折には、殿はまだ部屋住みで先代藩主・直亮様の跡継ぎも直元様がおられたため、藩主を継ぐ立場にはおられなんだ。それでも、書を読み、茶を点て、剣術に打ち込み、文武に精進されていたから三十路を越えて藩主に抜擢されたのだ。お前たちも精進すれば、いずれきっと彦根藩のお役に立とう」

 弟から茶杓を受け取った。煤竹だろうか。褐色の櫂先は粉茶が乗せられるように丸みを帯びて造作されており、節にあたる部分も丁寧に削ってある。制作者の几帳面な性格が感じられる。一番下の弟・新太郎に渡すと物珍しそうに色々な角度から見ていた。

「直弼様は、茶杓に萌芽と名付けられた。これは、家宝だ。私亡き後、三人の誰かが殿の想いと共に継いでくれ」

 こう言って父は、大事そうに懐紙に包み、箱にしまった。

 その当時藩主だった、直弼様が彦根藩内を巡見することになった。父は、一部警護役で付き従い、地元の人と話す様子も逐一教えてくれた。「一部」というのは、これまでの藩主の場合いくつかの村を見回って終わりであったのだが、直弼様に限っては彦根藩内のほぼすべてを見回られており、これは過去に記録にないことだという。山間の村から竹生島まで江戸との参勤交代で限られた時間に積極的に回られている。

 その様子は、事前に触れを出して特別な供応や献上品を断ったり、同行している藩医に病のものの様子を見させたり、鋳造現場や特産品の作業場にまでつぶさに見て回った。人々は、若いころからのご苦労が、農民たちへの気遣いとなっているのだと噂した。また、駕籠ではなく馬で巡見し、できるだけ領民たちと言葉を交わしたのだという。こうしたことを父から聞くにつけ、藩主直弼様への尊敬の念は募った。それは、私だけのことではないだろう。

 少し気温が上がってきたようだ。屋敷の床下、しかも、季節は秋の掛かりとはいえまだまだ日中は暑い。朝夕が肌寒いことから夏から抜けつつあるのだと実感する。大黒柱と思しき大きな柱に体をもたせかけ、糒(ほしいい)を口に含み、竹筒に入れてきた水で少しずつ咀嚼する。手持ちの食糧はこの干した米と梅干だった。こうして機を待つ間は、昔を振り返ることと、明晩の手順を確かめること、床下を動いて屋敷の構造を把握することしかできない。なにしろ、ここに忍んでいることを人に知られてはならないのだ。ふと、父の最期について思い出した。

 父・貞徹は、浦賀奉行の命によりたびたび相模湾の警護に駆り出された。最初は嘉永二年のことだったと記憶している。この警護のときこそ病身の母がいたものの、その後体調を崩して他界。国元である彦根には、三兄弟が残された形だが、隣村に住む母方の叔父、浅野徳蔵が夫婦そろって、なにくれとなく世話を焼いてくれた。また、同じ足軽長屋に住む家族も皆それほど裕福ではないのに、細かく面倒をみてくれていた。

 父はふた月かみ月ごとに帰ってきて、ひと月ほどいたのちに再度浦賀へ向かうという形をとっていた。回を追うにしたがって、充てられる人員は増えるようで最初彦根藩に割り当てられたときは一〇〇〇名だったが、嘉永六年には二〇〇〇名にまで増えていた。父は、最初から海岸防御掛(かかり)に参加していたこともあり、土地勘もあることから小さな班を任されていたという。

 彦根藩には下野の国に飛び地があったこともあり、遠く佐野から海岸を護るために藩士が駆けつけていた。なかでも父は、村山という足軽と懇意になった。同じ彦根藩士といっても、向こうは利根川上流、日光東照宮の南二〇里にある小藩であり言葉も全く違ったが、意外にウマが合い、非番の日には、縄のれんで安酒を傾けることもあったという。

 そんな中、黒船に乗ったメリケン合衆国総督・ペリーが浦賀に来航し、日本中を混乱の渦に陥れた。国を挙げての対処の末、日米和親条約を締結したのは記憶に新しい。この締結が行われた横浜村の警護にも多くの彦根藩士が駆り出され、貞徹も嘉永七年二月からこの任に当たっていた。今から六年前のことである。

 数日にわたる通詞を介しての折衝を終え、条約を結んだあと、安政元年三月二十一日にペリーが横浜村を去り下田に向かった。幕府は、これまで彦根藩に命じていた江戸湾警護の任をその翌月初頭に解いた。藩の財政負担を、辛抱強く説いてきた結果だと思われる。

 飛脚によりもたらされた父からの手紙には、ペリーの将軍への贈答品の数々が詳細に書きとめられていた。煙を吐きながら走る汽車、百里も遠くの人へ言葉を送る仕組み、大型の農具など今の日本では思いもつかないような技術がやや乱れた筆で熱心につづられていた。弟・寛蔵などは、献上された蒸気機関車について随分食指を動かされたらしく、折に触れては何度も話題に挙げたものだ。加えて信書の最期には、国元への帰省について述べられていた。しかし、父からの言葉はこれが最後のものとなった。

 四月に入り、彦根から海岸防御掛を受けた会津、川越藩などへと引き継ぎを終え貞徹と村山道之助は最後の別れを行った。この居酒屋で貞徹は頭痛を訴え、倒れてしまった。そのあと、周りにいた人が医者を呼んでくれたが、店に来た頃にはすでにこと切れた後だった。この時の状況は、村山が早飛脚で知らせてくれ、十数日たって同じ彦根藩士によって白布に吊るされた骨壺が届けられた。このとき、元服前でまだ政之介という名前だった私は十六歳。これで両親を失ってしまった。

 四年たって藩主・井伊直弼様が幕府の大老に就任された。大仰な祝いを固辞されたものの、彦根では国政の中核を担うことになった藩主に胸が躍る思いだった。孝明天皇も祝いの言葉を寄せたという。自分のような下級藩士には分からないが、江戸元では随分な権謀術数があったといわれた。

 急速に海外に向けて開けていく日本国のかじ取りは、井伊大老の双肩にのしかかったといえる。日米修好通商条約の締結やオランダ、オロシヤなど計五カ国との条約の締結、外国奉行の設置などが進められたが、一方で多くの反対者を出した。

 二〇〇年近く海外との公のつながりがなかった中で模索する様は、誰が差配をしても大変なことだったと思う。この判断が正しかったかどうかは、後世の判断に任せるしかなかろう。しかし、世間には予想以上の不満がたまっていたようだ。その中心を成していたのは、水戸九代藩主・徳川斉昭だった。権現様・徳川家康公の孫で水戸黄門として全国に知られている光圀公の七代後にあたる。十三代将軍家慶(いえよし)に信任を得た斉昭は、海防参与の肩書を得て権勢をふるっていたが、その地位をはく奪したのが直弼ら開国派だった。攘夷一本鎗で開国など全く受け入れない斉昭は、老中の集まりで開国の基本方針が決まった折にも激昂して反対を主張したという。

 開国後も外国人を受け入れない攘夷派は勢いを増した。それが爆発したのが、井伊大老就任の二年後、安政七年三月三日のことだった。珍しい春先の雪が江戸を白く染めていた。桜田門へ行く途中、杵築藩邸の前で大老の駕籠に駆け寄った侍がいた。手には訴状が握られている。直訴は、死罪など厳罰をもって償うこととされているので、尋常な覚悟ではない。折悪しく、雪への対策で、駕籠の周りの護衛は刀に柄袋をかけていたため対応が遅れた。集まった水戸浪人たちが彦根藩士たちを切り伏せ、駕籠に向けて鉄砲を撃った。それを機に戸を開け、雪の上に直弼公を引きずり出し、素早く首を刎ねた。

「開国の狗、討ち取りもした」

 薩摩藩の有村という侍がこう叫んで首級をもって南の日比谷に向かって歩き出したという。また、後の取り調べにより首謀者と実行犯は激派と呼ばれる水戸藩のものだと判明した。後に言う桜田門外の変である。

 結局、供目付の小原という侍が追いかけ、首級を取り戻した。追いついたのが、たまたま近江国三上藩士の屋敷前だったので、同屋敷前の番所から秘密裏に彦根藩邸に戻された。藩医の手によって首と体は繋ぎ直され、表向きには病死とされた。しかし、藩主の変死は、家名断絶との定めがあり、幕府からはその沙汰があった。彦根藩はお取り潰しの危機に瀕したのだ。しかし、譜代筆頭の井伊家・彦根藩と御三家の水戸藩の全面戦争を懸念した老中の話し合いにより、直弼は負傷とし、家督をその子・愛麻呂(よしまろ)に継がせることとなった。

 以上は、藩士などから聞いた話だ。

 江戸の彦根藩邸、そして五日ほど遅れて知らされた彦根藩でもその当日は多くの藩士がかたき討ちを口にした。何しろ見分により首謀者は明らかなのだ。事実、彦根藩から総計で七〇名近い藩士が街道を江戸を目指して歩き出す事態になっていた。しかし、幕府はこうした参勤交代にかからない藩士たちの江戸への出府を禁じた。

 老中も彦根藩の存亡にかかることのため、猛る藩士たちをなだめた。そうこうするうちに、彦根藩では、敵討ちなど口にするものがいなくなった。もちろん、背景には幕府からの圧力や、直弼派の減少などがある。しかし、大老という国を動かす中枢にある人物が、御三家とはいえ隠居した藩主の先導で命を落としてよいのか。何度も一人で煩悶したが、現在のような状況では、自分しかそれをなすものがいないと思った。

 床下からは分かりにくいが、午後になると、庭に鉢巻を巻いた子供たちが来る。屋敷の池の前にある小さな広場に十数名ほどが集められた。手には木刀を持っており、鉢巻を巻いて懸命に木刀を振っている。前には、年配と思しき侍が出て指導を行っている。床下からでは、子どもたちの腰から下しか見えず、前に立っている男性はふともものあたりまでしか見えないが指導の声や物腰からは若手には見えない。正眼の構えからの派生を重点的に行っている。

「これが基本にして、究極だ。反復こそが鍛錬。今の世は剣などいらぬという風潮もあるが水戸ではそうではない。必ず役立つ日が訪れる」

 子どもたちは、声をそろえて返事をする。指導にあたる年配の男の声は、植木職人として潜入した折に聞き覚えがある。たしか戸田といったか。

 一心に木刀を振る音を聞いていると、弟の寛蔵と打ち合いげいこをしたことを思い出す。弟とは二つ年が離れていたが、よく芹川の河原で修練をしたものだった。夏の暑い日は、そのまま川で汗を流して、連れ合って帰ったものだ。

 少しうとうとしている間に、日が暮れたようだ。庭に数人の子どもが出ている。犬の鳴き声も聞こえるので、遊んでいるのかもしれない。確か、この屋敷で二匹ほど飼っていた。と、鳴き声がこちらに近づいてきた。子どもたちの追う声も聞こえる。

「床下に入った」

「そっちに行ったぞ」

 舌を出しながらこちらに犬が来た。まずい、ここに潜んでいることを気取られてしまう。よく見ると、植木職人の時に何度か昼飯の残りをあげていた犬だった。急いで糒をだして与え、頭をなでる。

 子どもたちは、「どこ行った。太郎。太郎」と探しているようだ。薄暗く、あまりきれいではない床下には入ってきたくはないようだ。

 小声で「戻れ」といって子供たちの声が聞こえてきた方向を指す。太郎は、糒を口に含み、少し首をかしげてこちらを見たのち、尻尾を振ってそちらを向かった。

 しばらくして声が遠ざかり、雨音が聞こえてきた。季節外れの夕立だ。今晩は少し気温が下がりそうだ。太い柱に体を持たせかけ、目を閉じた。

(滋賀県文学際に投稿したものを改稿)

                            〈続く〉

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