”共感”は現代の宗教である

よい小説は、最初のたった数行で、読者をその世界へ引きずり込む。

いわゆるこの「導入」は、Webでは特に重要になるらしい。というのも、自分と関係ない、名もなき誰かの書く、タダで読めるWebの文章なんてのは、まず第一に期待値が低い。そしてそれが無限にひしめき合ってる状態にある(世界中のビーチの砂粒を集めたほどあるとか)一方で、時間は圧倒的に有限であるから、

もし最初に興味が持てない、少しでも意味が取れない文章が続いたら、そんなものは早々に見切り、次の出会いへと「Cntrl/⌘ + W」でタブを閉じるのが賢明なる判断。大人の嗜みとなる。

1枚目の写真だけを見て、左にスワイプするマッチングアプリと同じこと。他にいいものがなんぼでも控えている。そんな出会い頭の袈裟斬りが文章にもなされる。その1枚目にあたるのが「導入」というわけだ。

だから、導入(特にタイトル)にこだわれ。具体的な処方箋はこうですよ。てなことを半年間通ったライティングの学校ではよく聞いた。わざわざ違う講師から何回も聞いた。(随分こすりがいのあるテーマなのだろう)

優先順位がおかしいんじゃない?

「クリックされるタイトルの付け方」なんて講義を聞いていた時の、またかという感覚と違和感の正体は、いやいや、読ませるテクニックもええけど、まずは中身ちゃうの?ということに尽きた。

漢字平仮名カタカナのバランスが……動きのある言葉を……対立構造を……届ける意識が……読者に寄り添う……カギカッコから入る……blablabla

言いたいことは、理解できる。中身を見てくれ、中身で判断してくれと訴える前に、まずその見た目に清潔感がないのなら、土俵にも立てませんよと。

でも思うに、多分それだけではない。

講義では教わらなかったこと。それは、そもそもの大前提。読ませるテクニック(How)を覚える前に、届けたいメッセージ(What)がないと、それこそ、お話にならない、ということだったのだろう。

そして、この届けたいメッセージ(What)は教えられない。
誰かに教わるものでもない。

一番よく語る言葉に、一番強い信仰が宿る

この国には、八百万の神がいる。その一神教でない背景に、多様な価値観や、曖昧なものの考え方が許容されるポテンシャルがあると思う。

何、主語がでかいって? 自分の中の「誰か」が吠える。身の回り◯メートルの具体的な言葉で話すべし。不特定多数に向けた文章は誰にも届かない、云々。またHowか、黙っとけ。こっちはデリバリーの「前」の話をしてる。

このポテンシャルの地で、必ずしも一般的でないかもしれない実感や意見を誰かが表明し、それに対して何処かで「自分と一緒だ」と思ったり「応援」の意味だったり、そんなポジティブな感情が可視化され増幅され共有されることが、今はテクノロジーの恩恵で容易になった。

みんながそれぞれ違っていい、という(ある種当たり前の)価値観が、具体的な仕組みとして社会に実装され、どんな人間の意見でも、どこかの誰かに発見され、支持されうるという世界観は、多様な価値観をサポートしているようで、美しいと思う。

でもこれは、本当にそう(なっているの)か。

もし人が本当にそれぞれ違うことを称賛され、リスペクトを受けてるなら、もっとそれぞれに違う言葉を沢山聞いても良いはずだ。でもなんだか、同じような言葉ばかり聞く気がするな。(1)

今僕の目に耳に最も入り込む言葉は、言い換えれば(僕から見た)現代の信仰は「共感」だ。イスラム世界のアラーかのよう。1日5回?否、それ以上。誰彼問わずつぶやく、共感。まるで誰しもに共通の普遍的な「共感」というものが、”本当に存在する”かのようじゃない。

それは理解ではなくて、応援でもなくて、憐憫でもなくて、もちろん勘違いでもなくて「共感」なのか。本当に?

安い共感にさよならを

”共感”は人を強く動かすらしい。可視化された数字は、そんな風に人を動かした総和であり、謂わば、その人間が持つ影響力の評価(に見える)
見せられると欲しくなる。新しいiPhone。

かく言う僕も、その一人だ。客観的なスタンスで、僕にあれやこれやHowの指南をする「誰か」は、欲に飢えた自分自身である。

だから今年は(好きな)数字を見ないことにした。見たら欲しくなるから。優先順位を間違えそうになるから。テキトーなテクニックで、メッセージのない文章を飾っても仕方がない。話に中身がないのをレトリックで誤魔化したって意味がない。それはただ安いアルコールで悪酔いしてるだけ。そんなに淋しがるのはどうしてなんだい。

結局のところ、簡単な”共感”を取りに行くと、他の人からも「簡単に良いとわかる」ものを求めることになり、他の人から「簡単に良いとわかる」ものは、単純に薄いものに着地する恐れがある。

この八百万のポテンシャルの地が、これと決まった正しさのない混迷の時代に百花繚乱と咲き乱れる代わりに「わかるわかる~」とか「いいねいいね」とか、そんな見えない”共感”という名の正義をまとった同調圧力で「みんなと同じ」に縛りつける場になってしまうのでは勿体ない。

そうなるか否かは、きっと自分の捉え方次第なのだろう。

1. それはお前のチャンネルが偏ってるからでは? 興味と視野の狭窄さが、特定の言葉を選択的に拾ってるのでは? 印象の上で増幅しているのでは?等は妥当な指摘。課題にしたい。

主観たること、正確を期すこと

人は淋しい生き物で、その弱さを誰かの”好意”が救ってくれる。与えたものは返ってくる。好意の返報性。誰にも損のない話だ。他方で、可視化された数字やストーリーは人を煽る。参加者が増える。その結果、そんな”好意”が大量に流通する。大量に出回る物は価値が下がる。僕もその好意の水増しをしている一人である。その恩恵にも預かっている。

ただ前述のように、悪貨が良貨を駆逐してしまわぬよう、せめてこうしたいと思う。

まるでそこに「見える数字」がないかのように。一番最初に触れたと思っていいと思ったら+1。評価の定まった店の行列に並ぶのでなく、中には誰も人がいないと思って、暖簾をくぐって味わって。それで素直にうまいと思ったかどうかで判断したい。なるべく。

表現する上でも同じこと。まずはどこまでも、主観たること。それに対して正確を期すこと。(2) 客観を飾る方法は、それからでいいと思う。重々に言い聞かせて置きたい。書くことで自分自身に。

2. 太宰治の「風の便り」という短編を思い出して、引用。とてもオススメ。以下でタダで読めます。
青空文庫 / Kindle

(以上)

よくぞここに辿り着き、最後までお読み下さいました。 またどこかでお目にかかれますように。