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【一日一恥】読書の沼で何やねんと息を継ぐ

さほど痛くない腹を探ってみたら、微妙にかゆみを覚えたので、とりあえずボリボリ掻いてみる。すると、その周辺が妙に熱っぽくなった。どうしたことかと熱のあたりをさすっては、ああかなこうかなと考えて、最終的にはまぁいいかとうっちゃってるうちに、熱も引いてて、そういえばお腹も別に痛くないんやった。そんなお話です。長いので暇な人向け。

読書は沼

2月中旬から東京を離れ、再び奥飛騨に戻り、しっとりとした時間を過ごしている。人に会うことも、外を出歩くこともないので、本を読む、本を読む、本を…。よく寝ている。

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東京を離れる直前に、世界一やさしい「やりたいこと」の見つけ方ー人生のモヤモヤから解放される自己理解メソッドという本を読んだ。その時点ではそこまで深い課題感はなかったものの、これを読めばそこまで”確信”のない日々も、より自信が持てるようになるのかも。そんな期待を持って読んだ。

内容はシンプルそのもの。

自分の情熱(好きなこと=What)と才能(得意な方法=How)を掛けあわせて、やりたいこと候補リストを作ったら、それらを価値観(大事なもの=Why)でふるいにかけて、持続可能なものに絞り込めば、「やりたいこと」が出来あがります。そんな感じ。

ここでの自分の「情熱」や「才能」や「価値観」を言語化するために、本の中に具体的な質問があるので、それらをドリルみたいに答えて読み進める。やっかいな数学の問題も、正しい手続きを踏んでいるうちに、”もう少しで解けるかも”みたいな感覚になるのと少し似ている。結果としては、なんとなくいいところまで行って、終わった。

なんやねんな。

”惜しかった”感覚。これが何かにハマる条件ではないだろうか。微妙に手が届きそうで届かなかった。何やらモヤッとして、そのモヤっとキッカケで、「自分を正しく知る」ことへのアンテナ(問題意識)が立ち上がった。

複雑なものを複雑なままで、受け入れることが大事なのかい?

ひっかかるは、次の本。

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insight(インサイト)――いまの自分を正しく知り、仕事と人生を劇的に変える自己認識の力。これはピッタリとはまるが、しかし蓋を開ければ難読書。イントロの小咄と、うだるほどの例証と、いちいちまぶされたジョークなどが煙幕となり、本当に価値のある箇所や、主張の骨子を見失い続ける。ていうか長い。題名からして長い。劇的にいる?

とは言え、ざっくりまとめちゃえば、

自分を正しく知る、という要素を「内的な理解(自分からみた自分)」「外的な理解(他人からみた自分)」に分けて、双方をともに高めるWillとSkillをもって「自己認識の力」と定義しました。これらの力を継続的に伸ばしてゆくことが人生的にとても重要(筆者の仮説)ですよ。ソースは沢山の実験や論文です。というのが大筋。

そして、まず最初に読者をびっくりさせつつ、自説に引き込むためのフックを打ち込む。

「内的な自己認識」と「外的な自己認識」には全く相関がない(自分が自分のことを理解していることと、他人が自分についてどう感じているかを理解しているかは全く別物)ことがわかりました。よって、それぞれを伸ばしてゆく必要があるけど、実際には色んな落とし穴があって簡単じゃないから、その適切な方法をお伝えしますね、と進む。

次にもまず、アンチパターン(落とし穴)の警鐘を鳴らす。

1.自分のことを沢山考えれば、自分のことがわかるわけではない(闇雲に内省をしたり日記を書いても、自己認識は深まらない)
2.自分教の信者になってはいけない(根拠のない自尊心を高められた人間の自己欺瞞はヤバい病気である)

この著者は、ダメなパターンをダメダメ訴えるパートがまことに饒舌です。それらのダメパターンへの問題点をあげつらい、著者の研究や参考となる資料から推奨方法を述べてゆく。個人的にグッときたのが以下3つ。

① Why(なぜ)ではなくWhat(何)を問おう
② リフレーミングで捉え方を変えて、学びにFocusしよう
③ いい感じにフィードバックを受け取ろう

少しだけ説明を。

①は、時にネガティブで、最初の思いつきにも縛られやすく、思考が深まらないリスクのあるWhyの思考モード(なぜ出来ないか?)ではなく、よりポジティブで可能性が拓かれるWhatの思考モード(何したらよい?)で考えられるのがミソ。
(※特に、考える対象が”自分”の問題の場合)

②は、状況は変わらないので、自分側で捉え方をリフレーミングしてみよう(こいつ/こんな状況からでも何か学べることはあるかもしれない)てのがしなやか。

最後に③は、人を選び・質問を選び・状況を整えて、よきフィードバックを貰いましょう。特に「愛のある批判者」を選ぶべしと、シブい。

最終的にお話は、この「自己理解」の対象が、チームの自己理解へ、そして組織の自己理解へと拡張されて、都度その効果を謳ったり、はたまた気をつけるべきポイントを列挙したりしながら、「自己理解を高める具体的な7日間チャレンジ」で行動を促して幕となる。

パチパチパチ。いや長いて。

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僕はこの文章全体の論旨を「正しく捉えられないスッキリしなさ」に飲み込まれて、長大な文章を読み返しては眠くなりを繰り返し、何度も筋を見失い続けて、モヤモヤをつのらせた。そこでふわり。「なぜより何」が大事なんやったっけ。新しいアンテナ(課題意識)が立つ。

楽しくなけりゃ続かないよ

さてひっかかるは、次の本。

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いつしかAmazonの欲しい物リストに入れっぱなしにしていた、考え方と生き方を変える10の法則―原因分析より解決志向が成功を呼ぶ である。モヤッとしたキッカケで思い出し、掘り起こされた。

なんというか題名がうるさい。よく見たら3冊とも全部同じようなカタチをしている。題名に「こうした方がいいよ」の思想が詰め込まれている。それがテンプレートなのかい、と。

しかし、それはそうとして、この本は気持ちがいい。

死んだ馬にのっていることに気づいたら、最善の策は馬から降りることだ
  ーアメリカインディアンのことわざ

ゆるふわ系である。特定のパターンにハマっているのなら、なぜかはさておき、そのパターンを変えてみてはどうか。ちなみに、解決策として筋の良いものを紹介するから聞いとくれ、的な内容である。

まだ途中だが、楽しく読めそうな気配がある。

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これにてモヤッと感の諸端が解決したわけじゃないが、答えを探すように徘徊して「なるほど、なるほど」やったとしても、そこは実用書の性。問題は次々発見、提示され続ける。その探求が自然の好奇心に導かれる、楽しめるものならよいけど、そうでないならそれが何になると言うのだろう。

時には「忘れる」ことも大事じゃない。そうそう。忘れるといえば。

考えるという重い病気

またひっかかるは、ちょっと前の本。

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パパラギ。サモア人(非文明側)からの西洋人(文明側)に対する理解と、批判。自分の中での当たり前になっているもの、例えば、服、物、家、お金、職業、ひいては所有の概念や、ニュースや考えること自体に至るまで、それらを外側の視点の”曇りなき眼”で見れば、こう見えるのかと、ビックリして終わった。

例えば、所有をするということに関して。

ヤシの木は「自然に」葉を落とし、実を落とすからこそ、まわりの環境と一緒にその豊かさを育み共有し、次の木を育ててゆける。パパラギ(西洋人)は、まるで葉も実も落とすまいとするヤシの木のように生きている。これは自分のものだ。取ってはいけない。食べてはいけない、と。

これは慧眼が過ぎようぞ。サモアの原住民は、完全なる「共有財産性」のもとで生活をしており、そこには「自分の」ものという概念はないらしい。すべてはみんなのものであり、すべては神のものである。

そして本の最後に、「考えること」に対するパートがあった。要約しつつ、グッときたところを共有したい。

考えることや考えたもの、これらをパパラギ(西洋人)は思想と呼び、その虜になっている。彼らは隙間なく考え、自分たちの思想に酔っ払っている。太陽が輝けば「おお、日が美しく照っているな」と考え、船に乗れば「到着地にはいつ着くんだろう」と考える。

パパラギの中では、欲望(心)と精神(頭)は互いに対立しているようだ。パパラギは知らねばならない。パパラギは考えなければならない。そう教育され、頭に思想を詰め込まれるだけ詰め込まれている。その結果、頭の中の積み荷をひきずりまわり、重りに疲れて力なく、年でもないのにしぼんでしまう。

たったひとつ、考え病患者を治せるかもしれない方法がある。それは忘れること。思想を投げ捨てることである。だが、それを誰も習おうとしないからうまく忘れることが出来ない。かしこいサモア人は考えない。日が照れば、温かい光の中で手足を伸ばし、何も考えない。頭だけでなくからだ全部で光を楽しむ。また皮膚や手足に考えさせる。頭とは方法が違うにしても、皮膚だって手足だって考えるのだ。

私たちは、私たちの体を強くし、心を楽しくすることでなければ、何もしてはならない。心を曇らせ、心の光を奪うすべてのものから、頭と心をたたかわせてしまうすべてのものから、自分を守らねばならない。

考えることは重い病気で、人の値打ちを低くしてしまうことを、パパラギは身をもって教えてくれた。

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読書は沼である。ぐるぐるまわって、同じ場所を何度も通り過ぎ、何もないところに引っかかって転んでは、傷を癒やしてまた始まる。我はパパラギ。ホントはジャポニ。上手に考えて、上手に忘れて、楽しく読書を続けたい。

(以上)

よくぞここに辿り着き、最後までお読み下さいました。 またどこかでお目にかかれますように。