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自論

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短編詩集みたいに書いてます。 忙しいときにこそ、読んでもらいたい一転語のようです。
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#秋

自論③①:「学生の記憶⑸ <坂の上の曇>」

大海原の太平洋の向こうに 主のお役に立てる天人でありたいと願っていた人物がいた。 それは、同級の「子規」の顔に似た男で。 というても、授業中よく寝ていて変なことを考えていた。 まるで、その男は、俺の弟に似ていた。 もう一人は、その「子規」といつも隣の席に座っていた「真之」みたいな謙虚な性格だけは確かにあった男である。 授業中、先生に質問をしたり、真面目に勉強する態度を見せていた。 ただ、あるとき、この2人を後ろの席から俺は眺めていたが、、 どうやら、この2人は

自論②①:「学生の記憶⑴ <目立ってハイピース>」

小学校の日光の修学旅行のとき、 全学年の集合写真で、みんなのど真ん中の前の方に立って、 天上に顔向けながら、ピースをした。 人前に立ちたがり屋だったのか、なぜそんな行動をしたのか覚えていない。 これをある中学校同級生だったチリに在住の女性友人はクスッと笑ってチリ人彼氏にその写真を見せて笑っていた。 俺が昔、目立ちたがり屋の性格なのか。 中学の頃、演劇部に入って、その女性友人と部活の練習中にふざけることの方が多かった。 それで先生に怒られてばかりいたそうだ。 あ

自論②⓪:「わたくしの三大観念」

宗教の話とは別の話をしよう。 わたくしには、3つの観念を持って、これを学問として捉える傾向がある。 第一に「哲学的観念」である。 これは地球人が見る認識とは違う、ちがった視点で物事をみることにある。 たとえば、パソコンやスマホというモノは、作った人と作られた人の意思によって存在する事物であり、 人とは心という意識があって存在する実態であり、 自然というのは宇宙の光によって存在する現れである。 つまり、すべての物事は、与えられて支えられて生きていることにある。

自論①⑨:「幼少の記憶⑷ <いとこの発表会をみて思ったこと、そして、いとことの思い出>」

今日は、HSの 子どもたちの芸能プロダクション発表会に参加した。 そこには、いとこの弟(現在小学2年生)が「舞台演劇の主役」と「発表会の司会」をつとめていた。 その発表会では、中学生も高校生も、ダンスや演劇、 それから、アドリブ劇、合唱をしていた。 みんな、光の天使のようで、キラキラしていた。

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自論⑧:「幼少の記憶⑵ <兄弟剣果>」

古いボロアパートの中での記憶。 其は、20年前の頃のことであった。 白い剣のおもちゃで、 弟と 剣道みたいに稽古っぽいことをして 遊んでいた。 エイッ、エイッ! とやり合い、 振り方をミスってしまって、 弟の頭上に直撃。 すると、弟は鼻から血を流した。 今でも、笑えるこの一面。 弟と剣でお互いやり合ってる感じは、塩っぱい思い出に過ぎない。 「剣道」の稽古では、 演劇の剣道の剣で、侍をどう倒すかという本格的なお芝居のこと。 そういう槍撃ちをしてた時

自論⑦:「呪いについて考える」

呪い 其は、自分良ければ全て良しと思う心。 そして、其は、忘己利他でない感情。 この心は有害無益であると言い換えられる。 呪いは電波のように発信し続けているとも言われている。 では、自分に当て嵌めたら、どうなるのだろうか? 呪われて首を絞められそうになったことは微かにある。 しかし、其は、自分が周囲の中の感応する人においては 呪いを売ったということになる。 これはある種の罰を受けるという衝動を自分に課したということである。 一方で、「天道説的人生観ではなく、

自論⑥:「幼少の記憶⑴ <霧の中のバス停>」

保育園児の頃。 思い返せば20年前のことだったか。 登園前の交通手段は過酷であった。 父と弟と一緒に保育園まで向かった。 弟と同じ保育園。 父は送り迎えした後、出社した。 それは、朝であった。 霧のかかったバス停。 信号場の先には 周りには日産マーチが駐車した新築の一軒家があり、 バス停の目の前には 空き地に虎柄のロープが架かっていた。 私はそこで縄跳びのようにジャンプしたり、 綱引きのように紐にぶら下がったり、 虎柄のロープで遊んでいた。 バス