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Apple編:(3) お花見人事

 入社3年目の春。のちの転職面接では「なぜ、サポートから営業に移ったのか」と、この転換点は必ず質問されるのですが、説明はこうです:

「サポート部門ではグローバルプロジェクトで日本の特性を伝える役目だったが、担当者から聞いた二次情報を伝えるため、自分は市場を知らず、常に実感を伴った説得ができないと感じていた。それに、本来プロダクトが好きで入った会社なので、修理に至る前のブランドそのものの魅力に関わる、セールスサイドの仕事をしてみたかった。」

もちろん嘘ではありません。が、これは、短時間で動機を説明するための面接用の回答です。ここでは面接で絶対に触れなかった話をしましょう。

実は、恒例の花見で原田社長に「営業をやってみたいです」と言ったら「それはいいね」との一声で、翌週から営業部に転属になりました。

ホッコリする話?ですが、軽すぎるので面接では言ったことがないです。

グローバルな仕事のはなし

転属を願い出たその時、AppleCareは、体制が整ったというにはまだ道半ばでしたが、新しいプログラムのいくつかが動き始め、コールセンターもだいぶ持ち直していました。

BPRチームは、1年ほど前に役割を終えていました。メンバーはそれぞれ新しい世界に向かっていて、唯一AppleCareに残っていたわたしはグローバルの基幹システム導入プロジェクトに投入されていました。

そのポジションは、本来ティムのプレゼンの時にぶっ倒れた先輩の仕事でした。途中から上司になっていたその本人が Harvard Business School に留学することが決まった時、わたしに席を譲ってくれたのです。

明らかに入社2年目の英語のできない社員の仕事ではありませんでしたが、「大変だと思うけれど、そういう仕事では必ず成長するから」と推挙してくれて、他にそのアウェイな仕事をやりたがる人もいなかったため、わたしはスルッと、グローバルプロジェクトのSME(= Subject Matter Expert 、その分野に特化した知識や経験がある専門家)というポジションを得てしまいました。システム知識ゼロ、実務経験も浅く、英語もたいしてできないまま。

SMEの役割というのは、まず、システムが導入された後の業務プロセスはグローバルでこうなりますというBRD(=Business Requirement Documents、要件定義書)を読み込んで、基本的には国内の独自のプロセスをそちらにあわせるべく社内調整を進める一方、「日本のこの事情だけは、絶対に考慮してください」という致命的なことは本社に伝えてシステムデザインに組み込んでもらうという、橋渡しの仕事です。

当時、日本のカスタマーケアはレガシーの基幹システムに加えて40個以上のFile Makerの手作りデータベースが部署内に存在し、それらを活用しながらなんとか業務を回しているという状況でした。新システムがきたらそれらは一掃される前提でしたので、「国内のプロセスをグローバルにあわせる」というのも、それはそれで力技でした。

デザインフェーズでは、全てを印刷すると数十センチの厚みになるBRDが、日々こまごまと更新されます。それを追うのはただでさえ結構な負荷なのに、当然ながら全部英語なのが冷や汗ものでした。しかも何か気になる動きあると、その都度自分では判断できず、現業の担当者に時間を割いてもらって確認しながら進めなければなりません。

各国のSMEが一堂に会するフィードバック・セッションで本社に2週間の出張に行った時には、それが初めての海外出張だったのですが、時差ぼけで朝は起きられないし、連日の会議で話されることの半分くらいは意味がわからないし、早口で捲し立てる他国の参加者に圧倒されて発言もままならならいし、毎日、逃げ出したかったよ。

それでも自分は「日本の代表」です。ファイナンス、ロジスティクスのSMEは他にもいましたが、ビジネスモジュールの会議に出るのは自分だけでした。どうしても伝えなければならないことは資料を作っておいて、会議のあとプロセス・オーナーを個別に捕まえて訴えるとか、日本に来たこともある気心の知れたカウンターパートに根回しして助け舟を出してもらうとか、自分なりに全力で工夫したけれど、それでも大事なことをちゃんとおさえられたという確信が持てなくて、毎日、泣きたかったよ。

「どうしても伝えなければならないこと」とは、例えば、決済手段でした。ほぼ100%の決済がクレジットカードで回るアメリカと違い、日本は修理サービスにおけるカード決済の利用は半数もありませんでした。今でこそ多様な決済手段が世に出ていますが、当時は流通を介して行われる「代引き」に加え「請求書払い」しかできない企業顧客もまだ多かったのです。

自分がしくじれば「クレジットカード持っていないお客さまはMacの修理ができなくなっちゃう」と思って、わたしは必死でした。「でも、それたったのXパーセントでしょ、なくしてもいいんじゃない?」なんて聞かれると、英語の説明以前に重要度に関するインサイトがないから大焦り。使えないって思われるなあとわかりつつ「担当者に確認します」と時間稼ぎ。

今になって思えば、本当にインパクトのあることはどこかでなんとかなるのが大きな組織というものなので、そこまで思い詰めなくても良かったのです。でも、そういう匙加減を教えてくれる上司や先輩はいませんでした。

「グローバルな仕事」という響きはかっこいいけれど、当時のわたしは、むしろめちゃくちゃ不恰好に、とにかく、自分の出来る限りのことをやってみるだけでした。英語に自信がないから図解に頼りまくってつくった資料を見て、プロセス・オーナーが「You are a visual person(視覚的にとらえるのがうまいんだね)」と言ってくれたことは、今でも覚えています。褒められたの、それくらいだったから!

もちろん辛いことだけなら潰れていましたが、広い世界に視野が開かれ、本社の優秀な人たちと一緒に仕事ができたのはとても刺激的で、のちにその経験が自分の資産になるという認識はありました。

それに、所属部署からメンター的な支援がないことを見かねて、時々1:1をしてくれる他部署のマネージャーがいて、孤独な時期、その優しさが実は一番ありがたかったかもしれません。英語しか喋らない方でしたが、ちゃんとお礼を言えたかなあ。

後にも色々と海外と絡む仕事はありましたが、「海外出張に行く時は、目的を書き出し、30分も空白を空けない勢いで会議を組んで、それぞれ資料を作っていく」という習慣が身に染みていて、転職してから「そんなことしなくていいよ、適当にその場にいる人を捕まえて話してくれば」と言われて拍子抜けしました。その時には相応の英語力と交渉力がついていたからなのですが、そういったスキルも、思えばこの最初の仕事に放り込んでもらったからこそ身に付いたものなので「若いうちの苦労は買ってでもしろ」とはこのことだと思います。

「楽しいよ」に惹かれたはなし

冒頭のお花見での直訴は、その孤独なデザインフェーズをなんとか生き延びて、そこから数ヶ月間、本社のエンジニアが設計にかかる間、現場プロセスを調整しながら導入フェーズを待機するという時期でした。

ふっと肩の力が抜けた時でした。プロジェクトから離れて浮世に戻ると、あらためて、BPRメンバーが誰もいないことが寂しく感じられました。新しい本部長の意向で、自席のかわりに広い会議室を個室として与えられていたことも、プロジェクトが動いている間は本社との電話会議が多かったり、他部署の関係者と打ち合わせがあったりするから便利だった一方で、現業の先輩たちと遠い感じになってしまっていました。

決まったことを粛々と進めればよいので仕事はずっと楽でしたが、国内のレポートラインの上司は数ヶ月おきにコロコロ変わり、何をしたいのかよくわからない人ばかり、という時期でもありました。

当時、三枝匡氏の「V字回復の経営」というがベストセラーになっていました。今読んでも示唆に富む良本ですが、その副題が "2年で会社を変えられますか" 。わたしは組織の動乱を見上げていて、2年も待ってくれる会社はいいな、ここでは半年以内に結果を出さなきゃ評価するひとも変わっちゃうんだな、と思いました。

それで、登山で仲良くなった営業の先輩に「このままで大丈夫かな」と相談をしたら「じゃあ営業においでよ、楽しいよ」と言われ、ふっとその気になったのです。

仕事は随時全力投球でしていた割に、相変わらず「自分は何をしたい」ということはよくわかっていませんでしたし。

要するに、ちょっと燃え尽きて、淋しかったのです。そうして行った先の営業の話は続編に預けますが、その前に、ひとつ逸話を。

多寡のわからない具体的な金額のはなし

移動して3ヶ月くらい経った時、思いがけず、元の部署から「戻ってこないか」という声がかかりました。新体制になって、グローバルチームに直接レポートする役割ができるからと。自分が頑張っていたことを誰かが見ていてくれていたと思うと嬉しかったし、「マネージャー候補のポジションで、良い話だから聞いてみるだけでも」という人事の推奨もあって、面接を受けたら、すぐにオファーが出ました。

今だから言える話としては、そこには相当のベースアップが提示されていました。それは、ボーナスが出るかどうかも怪しい事業会社の入社3年目にとっては魅力的な金額だったので「話をきくだけ」と思っていたのに、正直、心が揺れました。

それでもやはり、営業に移ってまだたったの数ヵ月。今戻ってしまったら、フロントの何をしたとも言えなくなってしまいます。なにより、トップダウンで使えない新人を押し付けられて内心迷惑だろうに、温かく受け入れ仕事を教えてくれているこちらの部長や先輩たちに申し訳ないじゃないですか。やっとこれから自分のお客さんもついて面白くなってきそうだし。

というわけで、悩み抜いたうえで断ったら、採用マネージャは呆れて「正気か?ベースアップの金額見た?あなたは現実を理解していない!(You don't understand the reality)」と言われました。

お金の重みについては、確かに当時のわたしは、何がリアリティだか分かっていない、という自覚がありました。

ちょうどその頃、新聞の片隅に、奥さんと子供を道連れに一家心中した人の記事が小さく載っていたのですが、その人が苦にしていたという借金が、ベースアップとして積まれた金額とほぼ同じでした。

それは、事業会社の3年目のベースアップとしては大きいお金だけれど、一家族の命の値段としては絶対に認められない小さなお金でした。後にちょっと大人になって「背負う金額の過多ではなく、もっと広い意味での絶望が人を殺す」という解釈を得るまで、その現実味のない衝撃は、多寡のわからない具体的な金額とともに、長らくわたしの心に刺さる小さな棘であり続けました。

しかし同時に、その棘を胸に、わたしは「仕事をし続けるなら自分はそれくらいのベースアップは挽回する!」と意を固めました。わがままで会社からの好意を断った自分への約束として。

まあ、会社にしてみればそれは「好意」などではなく、ドライな判断だったんですよね。当時のわたしは、3年間の実績のあるAppleCareでのほうが、未経験のSalesにおけるよりもよっぽど使い手のあるリソースだったというだけ。でも、こういうことはいい感じに解釈したもん勝ちだと思うのです。

本件に限らず、受けなかった仕事・選ばなかった選択肢のいくつかについては、折に触れて振り返ることがあります。正解も不正解もないですが、いまある自分が得てきたものを確認し、予測不可能な未来に進むために。

※ Apple編最終章の続編は、営業での仕事の話です。営業に残ったことで、わたしは再度「マネージャ・コロコロ(上司がガンガン変わる)」の憂き目にあい、結果として会社を去ることになります。でも、紆余曲折を経て今ここにある自分を思うと、やはり「人生万事塞翁が馬」だと思えるのです。

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