スピリチュアリティとの距離感

さて、前回のコラム (2) では、ヒプノセラピーには主に二つの技法があり、それは「暗示(afarmation)」と「退行(regression)」だということについて触れましたが......

欧米では「暗示」が売れ筋、日本では「退行」が人気

ヒプノセラピーが欧米で一定の認知を得ている背景のひとつに、第二次世界大戦の時に、負傷兵の手術を麻酔なしで行う前線で利用されて有効性が実証されたという背景があります。

催眠を体験したことがないと、それで痛みが制御できると言われてもいまいちピンとこないと思いますが、わたしはヒプノ・バーシングを自ら体験してみて、その実感をもつことができました。

催眠によるイメージは肉体に影響を与える。その効果は侮れません。戦線での治癒の効果は明示的だったことでしょう。

その流れで、欧米でヒプノセラピーが市場を得ている分野は、実は、禁煙(Stop Smorking)やダイエット(Weight Control)などの、「暗示(afarmation)」系のものです。ヒプノバーシングも暗示系です。

一方で、日本人はヒプノセラピーというと、多くの人が「退行(regression)」に興味を示します。それもインナーチャイルド的な過去退行よりも「前世退行」に。

日本人は子供の頃から仏教の輪廻転生の概念や神道の八百万神という概念に馴染んできているからか、「前世」なるものを信じるとまでは言わないにしても、絶対に無いとは言い切らない「自分のそれがあるなら、どんなものか見てみたい」というおおらかな好奇心があるようです。

催眠の歴史を遡れば、19世紀半ばにジェームズ・エスデイル(James Esdaile)というスコットランド人のお医者さんが、インドで催眠を使った手術をなんども成功させて認められ、帰国して同じことをしようとしたらちっともうまくいかずに失意のうちに亡くなった。という話もあります。(インド人といえばヨガとか瞑想とか得意そうだもんね…)

つまり、スピリチュアリティとの距離の取り方は、その人の育った文化背景・家族経験・体験など複雑な要素によって形成されるので、前世療法のとらえ方もまた、文化によって、人によって、幅があるのです。

わたしにとってのスピリチュアル

催眠師の資格をとって最初に悩んだのは、実は「前世」というコンセプトを扱う時の、距離感の取り方でした。

わたしは、いわゆる「スピリチュアル系」がよくわかりません。なにそれオカルト?って思ってました。でも、前世なるものを扱うために、その捉え方を自分なりに考える過程で、今は、少なくとも「畏れ」はあっても「怖れ」はないです。

わたし自身にとって、スピリチュアリティってどんなことかと聞かれたら、それはやはり自然に対する畏敬の念に近いと答えます。

趣味の登山で、北アルプスのような深い山に分け入ると、山の神気に触れたと感じる瞬間があります。急に空気の色が変わるような、結界に入ったような。

空気の薄いところでは、自分の内側では拍動や呼吸が際立って「生きている感」が増すと同時に、一方で、体も心も輪郭を失って大いなる何かに溶け込んだような、いわば「死んでいる感」を感じることがあります。(キリマンジャロ登頂記で書いています)

わたしが、草木や岩水に八百万の神様の宿ることを感じられるのは、肉体機能のほうが限界に接している、そういう時でした。長らくビジネスの前線で睡眠不足とか肌荒れとか、いろんなものと戦って、いわばマインドフルの反対のスタイルで暮らしていたから、それくらいの非日常が必要でした。

催眠師の世界とその周辺には、以前のわたしだったら後ずさったようなスピ系な個性全開な人も多いです。そのような方々の言葉の使い方と自分の解釈との接点を探るうちに、そもそも自分でもちゃんと説明できない領域について、それを、精神、心の機能、魂、霊、神様、なんと呼ぼうが人それぞれに自由であって良いわと心の底から思うようになりました。

テレビに出てくる霊媒師とかも、基本的に嫌いでしたが、それもその人なりの表現方法だと思えば、まあいいかと。わたし自身の立ち位置が変わったわけではないけどよ。

目に見えぬもの、認知限界だらけの人間が未だに理屈で捕まえかねているもの、科学的に証明されていないものは、この世界に確かにあります。自分のことに関してさえ案外みんなわかってないから、いろんな病気にもなるわけで。

AIの整備が進んでみんなのかわりに雑務をしてくれるようになったら、人はそこに生じる退屈を、哲学することに向け始めると思うのです。そしてそれはきっといいことだと思うのです。

ってわけで、「シンギュラリティは近い(エッセンス版)」を読み始めました。まだ途中だけど、面白いです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?