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Apple編 :(1) 初期設定

最初の会社、Appleには、2000年4月から2006年2月までの6年弱在籍しました。その間、直属の上司が10回以上変わりました。

12か、13か。正確なところを忘れてしまうくらいコロコロ変わりました。

ちなみに、当時正社員150名ほどの組織でした。わたし自身の大きな配置転換は、アップル・ケア本部からセールス本部への1回だけ。ただ、それぞれの本部で、マネージャ陣の総入替えをともなう組織再編成がありました。いかに当時のAppleがぐらぐらしていたとはいえ、他の同期はもうちょっと落ち着いて仕事に向かい合えていたはずです。多分。

客観的に振り返ると「うわ〜!」な数ですが、カオスのただなかにいるときは、案外、それが特殊な(ぶっちゃけ、あまりよくない)状況という意識はありませんでした。というのも、

入社後すぐの新卒顔見せランチで、当時の社長だった原田さんはこう仰いました。

「みなさん、外資で仕事をスタートしたということは、周りの人も自分もどんどん変わるということです。来年、わたしとあなたがまだ一緒に仕事をしているかどうかわかりませんよ。」

更に、最終面接官のひとりだった福田さんは新卒向けのオリエンテーションでこんな門出の言葉をくださいました。

「基本的に、中途の先輩たちは新卒を育てようなんて考えていないと思いなさい。経験がないけれど海千山千の先輩たちと同じ土俵で仕事をしていくために、今あなたたちができることは考えることだけです。人の何倍も考えなさい。思考があなたたちの武器になる。思考は経験を越える。」

 思考は経験を越える!

後になってこの話を人にしたら「きびしい〜!」と言われて、初めてそうかと思ったけれど、言われたその時は、ちょっと寂しいけどそんなものかと素直に受け取っていました。そして、どちらのアドバイスも、どうしてなかなか実戦的な初期設定だったと思います。

配属後のカオスで足元が見えなくなるたびに、わたしはその言葉を杖にして前に進みました。転ばないように何度も握りしめているうちに、その言葉は言霊となり記憶に刻まれました。「考える」は初期のわたしの行動原理でした。

最初の配属先では(現在のAppleの時価総額からは考えられないことに)財務状況逼迫のために、四半期を超えずにプロジェクト自体が中止になってしまい、そのために採用されていた最初の上司は会社を去ることになりました。可愛がってくれていたので悲しかったけれど、妥協のポジションに頭を垂れずスパッと退職した彼女は、ある意味、外資プロフェッショナルの生き様を背中で教えてくれたと思っています。

最初からそんなノリだったので、運よく、ちゃんと仕事を教えてくれる上司にあたった時にはここぞとばかりに張り切りました。「これはあたりまえじゃない」「いつまで続くかわからない」という前提のもと、考えながら、工夫しながら、思い切り仕事をするのは、楽しかったなあ。

社会人前夜編に書きましたが、その頃わたしには「やりたいこと」が特になかったので、逆に、仕事はなんでもよかったのです。自分の好きな仕事がはっきりしてきたのは「やりたいことを探さなければ」という意識が希薄であったぶん人より遅いかもしれませんが、社会人7年目〜10年目くらい。でも、それまでの仕事も、それぞれに楽しんでいました。

そして感謝しているのは、横から支えてくれた先輩たちです。訊ねれば快く仕事を教えてくれたり、わたしに足りないノウハウの本を勧めてくれたりするやさしい先輩は意外と多かった。この「意外と」がよかったのだと思います。初期設定のおかげで「教えてもらえるのが当然」ではなく「凄いラッキー」だと思っていたわたしは、そういうアドバイスを真面目に聞いて、考えながら実践しました。

わたしの成長を促してくれるすべての言葉には「ありがとう」でした。今も記憶に残る言霊シリーズ、実はたくさんあるのですが、きりがないので今回は割愛します。

一方で、最初にそんなサバイバル・モードをインストールされたことによる弊害もありました。ルーキー時代のわたしは「この人はダメ」と思うと、上司であろうと年次が上だろうと、嘗めてかかっていうことをきかない使いにくい若手でした。それがいくら「この人はイイ」の時に人一倍働きますというのとセットでも、いうまでもなくそれは組織人としてアウトです。

オブラートの1枚もまとわぬポジション・パワーのきかなさっぷりに、あんぐりしてた何人かの元上司の顔が思い出されます。

仕事の背景や理由を訊ねた時に「俺が上司なんだから言うことを聞け」とか「あなたにはわからないでしょうけど私は大変なんだから」とかいうのは、わたしにとっては「考えよ」の第一原則の足を払う、最低の上司でした。

今思えば、納得いかないにしても、もうちょっとマイルドな態度や聞き方ってものがあっただろうよ、と思いますけど。若かったの。

いや、ちょっとまって!経験を積むとともに立ち位置が変わってきたし、最後の会社のGoogleでは素晴らしい上司に恵まれたという幸運のために自分はすっかり丸くなったつもりでいたけれど、思い出すと、今も「そんな説明しかできない人は立場にかかわらず残念だよ」という信念は揺るぎません。これを書いているうちに、この「弊害」の方は、やっぱりわたしの性質の問題であるような気もしてきました...。

それでよく組織人が続けられたものですが、当時のAppleというのは生意気な新卒の一人くらいどうってことない、カオスな、なんでもありの、良く言えば「懐の深い」場所だったのだと思います。そして、総じてみると「人一倍働きます」の重量の方が勝っていたということ、つまり、数の問題ではなくそれだけ素晴らしい上司や先輩との出会いに支えら得る方が多かったから、わたしはここまでこられたんだなと感謝しています。

表題は、入社1年目に初めての登山した時の写真。誘ってくれたのは新卒の先輩で、ハイキングに行こう!っていわれていったら本格登山でした。そのハードコアなエントリーが却って山にはまる理由になったのですが、冷静に考えると「初登山で11月の赤岳はないよ!ジーンズで行ったんですけど??夜は嵐で小屋が揺れるなか、松本深志の遭難事件の話とか聞かされてマジ泣きだったんですけど???」と問い詰めたくなります。彼女もまた規格外な人でしたが、結婚して一児の母となった今も、たくましくAppleを支えています。オフで仲良くしてくれる先輩たちもありがたい存在でした。

※ Apple編、続きはもう少し具体的な仕事の話をします。

※ 履歴書シリーズはこちらのマガジンにまとめています。

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