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ドヤ顔でフレームワークを語るマーケターに対する漠然とした不信感の言語化

最近、仕事の一環であるサービスの競合サイト比較をしていて、

某企業のマーケティングページは要素はぬかりなくきちんと押さえているのにどうも下品に見えるなぁ、なぜだろう?と思っていたら、それはそこそこ有名な某コンサル会社が入って整えたものらしいと聞き、

やっぱりそうか!大勢を購買に動かすことを狙った仕掛けって、型だけを整えるとむしろ空虚でうさんくさくなるよね、とガテンした。

私が企業の中で消費財のマーケティングを担当していた時間は3年たらずだったけれども、当時、「定石」を押さえることはもちろん大切ながら、顧客に向けて情報発信をしていく手前には、なにか「入魂」ともいうべき、中の人が頭に汗をかく儀式がないとだめだと感じていた。

コトラーは、マーケティングは顧客の創造と維持だと言った。実際はもっと丁寧な定義文の一部だが、超要約するとそう言った。

しかしその神髄は、キャンペーンにどんなテキストを仕込めばクリックされるとか、何色を使えばコンバージョンが上がるとか、バナーの位置はどこがいいとか、ライクの数を増やすにはとか、そんなことではない。

今は、様々な情報が万人に開かれ、その気になれば誰でも容易に専門的な知識を得られる時代。技術の進化のおかげで、美しい画像や映像が誰でも簡単に作れて発信できる時代。でも、環境がそうだからといって、皆が専門家や発明家なるわけではない。

何でも可視化できる時代でもある。インプレッション、コンバージョン、そういった指標に夢中になる気持ちは分かるよ、ラクだもの。でも、システムが捉えない空白の意味を考えるところこそが人間の仕事なんだ。

自称「マーケター」がドヤ顔をした瞬間から(本人にそのつもりはなくても、思考停止してシステムやコンサルの言うなりに委ねるというのも、手抜き故にそう見える)そのフレームワークに垢が付きはじめる。

そういうのが悪目立ちして、マーケティングを支える心理学も十把一絡げで嫌悪されるのは残念だ。本来の心理学だって、そんなものではない。

成功するビジネスには顧客に対するリスペクトがある。定石で割り切れない、丁寧で慎重で継続的な試行錯誤の中に、価値創造がある。

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