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社会が間違っているかもしれない - ウィリアムソン

ウィリアムソンは、1960年代にミネソタ大学で、パーソンズの特定因子論(talent-matching approach)を応用して、学生カウンセリングの草分けとなる学生キャリア相談所を創設した、まさにキャリコン源流の人です。

時代を共にした(そして後のカウンセリング・シーンで主流となった)ロジャーズの「非指示的カウンセリング(Non-Directive Counseling)」に対して、「指示的カウンセリング(Directive counseling)」を主張しました。

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そんな試験対策的概略からは頭が堅そうな印象ですが、私は、当時ウィリアムソンに学んだ平木典子さんがインタビューの中で(心理学の学生に向けた)彼の以下の言葉を引用しているのを読み、イメージが変わりました。

「みなさんがカウンセリングするときに、相手をその社会を適応させようとしてカウンセリングするな。社会が間違っているかもしれない。もしかしたらその人が革命家になるというキャリアだってあるということを考えて欲しい。」

ウィリアムソンとロジャーズが指示か非指示かを巡って激論を交わしていた1960年代頃のアメリカは、政治的激動と社会不安のただなかにありました。

JFKの暗殺があり、民主党のジョンソン大統領のもとで公民権運動や貧困撲滅運動が展開され、マーチン・ルーサー・キング・ジュニアが演説を行い、ベトナム戦争に対する反戦運動が花開き、ヒッピーが流行った。世界的にはビートルズが最盛期だった…そんな当時の心理学シーンを想像するにあたっては、平木さんのこちらの記事も参考になります。

そんな時代に、ウィリアムソンは大学は学生の卒業後の行動に対して責任があると発想し、のちに世界に広がる学生相談センターを創ったのです。

そのカウンセリングにおいてはパターナル(Paternal、父性的)なアプローチで知られる一方で、ウィリアムソンは、大学の相談センターの組織運営には積極的に学生の意見や提案をとりいれる側面もあったようです。

ロジャースと個性や立場は違えど、根本の部分でクライエントの内在的な力を信じ、幸せを願い、その意思を尊重する臨床家だったのでしょうね。

ここで余談ながら、今、私が心理学を勉強しながら思うことについて触れたいと思います。をこの分野の学びはとても面白いのですが、

「クライントではなくクライントと言うのはもぐりだ」とか、

「無意識ではなく潜在意識と言うのはアカデミックではない」とか、

本質的に意味がなさそうなこだわりを持つ方がちょいちょい、います。

英語ならどっちも "client" だし、"subconscious"(むしろ気絶するのunconsciousと使い分けされる)ですよね。

私は元々スピードの速い外資系どっぷりで、数字をとってくる人が正義の世界が長かったし、ヒプノセラピーというそもそも "アカデミックじゃない” 代替療法を海外在住の先生に学んだところからこの世界にエントリーしたという経緯もあって、この手のトラップを片っ端から踏みまくっています。

自分は新参者なので「正統はこう」と言われたら一応意識はしてきたのですが、独学ながらにいろんな書籍を読み進めてきたなかで、日本の心理職(の一部の人たち)によるこの手の識別子は、実は全く気にしなくてもいいのではないかとも思い始めています。

別の学問領域の、言葉に対するプレパラートを扱うような慎重さや「批判」は、創造と進化のプロセスであると感じるんだけどなあ、折角、人の心というやわっかいものを扱ってるのになあ、という感じです。

…という、実にどうでもいい話からウィリアムソン v.s. ロジャーズのテーマに戻ると、

ウィリアムソンは教育者という立場から、時代の一大ムーブメントを起したロジャーズの絶対傾聴主義に対して、「子曰く、学びて思わざれば則ち罔し(くらし)、思いて学ばざれば則ち殆し(あやうし)。」(by 孔子)ということを言いたかったんじゃないかな、なんて思いました。

ロジャーズとウィリアムソンの非指示・指示論争は、一種の哲学バトルだったんじゃないかなと思います。(その表現も、われながらずいぶん適当)

…本当に二人が互いをどう思っていたかは、やはり原文を当たるとか、もっと勉強を進めないと分かりませんが。網羅的にいろいろ舐めるステージのわたしからは、今日はここまで。

どなたさまも、ハッピーなライフキャリアを。

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