誰かを納得させなくていい
子育てをするようになって「自己肯定感を持たせる子育て」的な本が実にたくさん出回っていることに気が付きました。最近の流行?とにかく、それは今時の母ちゃんたちにとって大きなテーマのようです。
以前、「夜と霧」のフランクルを紹介した際にも少し書いたのですが、私ね、かなりしっかりした自己肯定感の持ち主だという自覚があります。
それはこれまでの自分を助けてきたし、どう育てたら自分の子供にも持たせられるかと、やっぱり考えます。
でも、その表面の「自己肯定感」っていうのは、裏面の極端で激しい何かとセットなんですよね。詳しくは書かないですがあれこれあって、物心ついてから思春期までの私には「自分は奇形だから理解されなくても仕方ない」という思いがありました。まあその割にカラッとしてたのは性格ですが。
だから、我が子には、裏はナシにして表の自己肯定感だけ引き継ぎたいです、何卒…って切に思って、上述のハウツー本も何冊かは読んでみたのですが、だいたいが右から左に抜けていく薄っぺらさで、ここで紹介したいと思うような知恵はなーんにも残っていないです。(これについては、私の期待値…課題設定のほうが間違っているのかもしれませんが。)
でもまっとうに考えて、やはりそんな都合よくいくわけないですよね。
最近思うのは、「自己肯定」という生命原理について、わざわざ「感じる」とか「感じない」とか発露するいう時というのは、どっちにしたってそれは本人が環境の中で自分の異質さに気づく状況なんだなってことです。
違うけど「いいや」なのか「だめだ」なのか。違う…というのがあってどっちかという分かれ道が顕れるわけです。
極端な話、映画 The Greatest Showman の劇中歌の「This is me」のような状況です。(見たことない方はYoutubeで視聴できるのでどうぞ、物語を知らなくてもこれが自己肯定感の歌だということは伝わると思います。)
一部の歌詞を抜粋すると、
I am brave, I am bruised 勇敢で満身創痍
I am who I'm meant to be, this is me これが私、ありのままの私
Look out 'cause here I come ごらん、私を
And I'm marching on to the beat I drum 私は自分の鼓動にのって行進する
…なんだけど、冷めたい視線で見られることがなければ、他者の愛と理解がスムーズに得られるならば、そんな勇気を振り絞って傷だらけになって進む必要はないのですよね。
今日、何でこんなことを書いているかというと、昨日私はNetflixで「梨泰院(イテウォン)クラス」(先日見終わった「愛の不時着」のパク・ソジュン主演の別のドラマで彼にめろめろの友人たちの強烈な推しにより…)の12話を見たのですが、それで「自己肯定感の発露はタフな経験とセットだな」という確信が深まったからです。
ネタバレなしで結論だけ先に書くと、
子供に自己肯定感をもたせるために、母ちゃんの私が出来ることというのは、結局は彼・彼女の生命力を信じることに尽きるのだと思いました。まだ6歳、3歳ですが、これから生きて行けば深く傷つくこともあるでしょう。
そんな時に「あなたはあなたなのだから、誰かを納得させなくていい。」そう言ってあげたい、あるいは態度で示したいと思います。
それは、甘やかすとか、何をしても盲目的に肯定するということとも違います。でも、彼らの生命力については無条件に信じます。
で、以下はそう思ったエピソードについてネタバレ込みで書くので、これから見る方は読まないでください。
★
お店の存続をかけた生放送番組「最強の居酒屋」決勝戦の直前に、料理人のヒョニがトランスジェンダーであることをアウティングされてしまいます。
そこで動揺するヒョニに対してパク・セロイ(本作でもまた皆に惚れられるいい男っぷりです)が「おまえはおまえだ、誰かを納得させなくていい」と言います。とてもやさしく。でも変に慰めるわけではなく。人間には生きる価値を追求する自由と責任があるという、フランクルの理念にも通じます。
そして、仲間のイソが「この詩であなたを思い出した」と言って伝えるのが、以下です。
炎で焼いてみよ 私はびくともしない石ころだ
強くたたくがいい 私は頑強な石ころだ
暗闇に閉じ込めてみよ 私は一人輝く石ころだ
砕けて灰になり腐りゆく
自然の摂理すらはね返してやる
生き残った私 私はダイヤだ
私はあなたの強さを信じているよ、というメッセージ。まさに自己肯定感の詩ですよね。
二人の事葉に力を得て、ヒョニは立ち上がり、カメラの前で「私はトランスジェンダーです」と宣言し、見事に優勝を勝ち取ります。
業火に焼かれても砕けず、自己肯定感をもって立ち上がれる時って、信じられる仲間が、自分の強さを信じてくれると感じられた時なんですね。感じる、というのは、自分以外から与えられるものなんですね。
セロイとイソの事葉に共通するのは、そこに自分の感情はのっけず、おしつけがましさがないところです。がんばれともたちむかえとも言わない。アウティングした敵や冷ややかな目線を送ってくる外野なんか、もうほとんど無視。自分の価値は自分で決めていいんだという、まさにその一点についての強化に徹しているんですね。
子育てに悩む母ちゃんとして、難しい「自己肯定感」のはぐくみ方の要点をひとつ学ばせていただいた気になりました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?