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娘が泣くほど苦しい《真面目さ》なんていらない

私には娘と息子がいるのですが、娘が超真面目で学生生活は皆勤賞。勉強も自分でやるし、忘れ物もなし。

一方、息子の方は自分に似ていてかなり適当。年中フォートナイトやってます(笑

我が家はルールがあって、特に私ですね。あれをやれ、これをやれは絶対に言いません。にもかかわらず、子供達は親に迷惑をかけてはいけないって思っているらしいし、真面目というか、ルールは必ず守るべきだ、みたいな価値観が自然に強くなっていて、少しまずいなと感じてしまいました。


そして先日ついにその真面目さがゆえに事件が起きてしまったわけです。

塾のオンライン開始時間にネットワークエラーで5分ほどZOOMが繋がらなくなってしまい、なぜか大泣きしてしまったわけです(10分前から接続テストをしていて)。

そのまま接続ができオンラインの塾が開始されたわけですが、一人だけ大泣きしているので当然先生含めて私も心配して質問してみました。(当日私は後ろで仕事をしていたからその様子を見て理由を聞いてみた)

そうすると、「遅れてすいませんでした。遅れるとみんなに迷惑がかかるから申し訳ありません」と泣いて誤っている。

めちゃくちゃ心が痛かったです。

幸いに塾の先生は時間にルーズな人なので(苦笑)、そんなの全然いいし気にしないでいい。「あなたは真面目すぎるから少しぐらいルーズになったほうがいい」ということをずばり言ってくれたわけです。

そもそもネットワーク回線が遅いのは我が家のwifiのせいなので、娘の責任ではありません。しかし、娘は自分がコントロールできる範囲を知らないので、無意識に自責をしてしまったわけですが、この傾向は本当によくないなと思いました。

いやむしろ何も伝えずにその勤勉さや真面目さを習得できたこと、してくれたことに感謝ではありますが、日本人は割とこういう自分ではコントロールできないところまでを責任取ろうとしたり、他人の責任を自分の責任として負ってしまって心を潰してしまうケースが本当によくあります。


度がすぎた真面目さ
無意識の「完璧主義」が根付くデメリット


先にお伝えしておきますが、真面目さや完璧主義が悪いということでは決してありません。ただ、この真面目さや完璧主義という価値観は、使い方を謝ると人生がとことん苦しくなるということを知っておいた方がいいし、知らない人には誰か教えてあげる必要があるなと私は常々強く感じています。


日本人は真面目すぎる?


これはよく日本人、または日本の文化や価値観=とセットで捉えられることが多いと思っています。特に海外の人、海外の友人などからはよく言われます。良い意味でも悪い意味でもです。

良い意味ではどういうことかというと、自制すること、遠慮すること、人を立たせること、細かいルールでも守ること。気を使うこと。一律横並びであること、などが代表的かと思います。

しかしこれは一方で、融通が効かない、頑固、つまらない、ユーモアが足りない、度胸が足りない、突き抜けていないといったマイナス面を誇張した捉え方をされることもあります。

どちらがいいというわけではなくそういう側面がある。捉える人によってはどちらにでも捉えられるという事実を知っておくことが重要です。


日本は至る所に真面目さが
維持する仕組みができている


例えばグローバルな規律としては、時間が顕著な例だと思います。交通機関の時刻表。学校や会社の時間厳守ルールなど。毎朝決められた時間に決められた時間だけ学習したり、就業させるためのルールなどですね。

これらは規律を守るための仕組みだったり、目に見えづらい単位を客観的な指標として測る場合などにも最適なのでまだいいとします。

しかし、私たち日本人はこれだけではない無意識の自制や「べき論」を求めすぎていたり、「完璧さ」を無意識に徹底しなくてはいけないんじゃないかというような価値観や文化が過剰に浸透しすぎているのではないかとも強く感じることがあります。

その結果、多様性や柔軟な視点や思考を削ぎ落としていたり、周囲と合わせることが美徳だとか、なにより「人様に迷惑をかけちゃいけないんだよ」というところが強くなりすぎていることに、現代の人たちの心が病みやすい原因にもなりえているなと個人的にも感じているところです。

では実際よく見るデメリットは何かについて書いてみたいと思います。


真面目さや自制しすぎて浮上するデメリット


1つ:0ー100思考になりやすい

たとえば、特定の物事は完璧じゃないとだめ! 意味がない、価値がないなどのルールを自分の中に課することです。成功しないと無価値だと思いすぎること。本来、人の生き方はファジーなはずです。

しかしある物事において、成功か失敗か。レギュラーか補欠か。0点か100点しか物事を捉えられない人は人生めちゃくちゃ生きづらくなります。

この考えは日本人は特に強いのではと思っています。

例えばある習い事をしたい。

けれども「何の意味があるの?」という人がたまにいますよね。役に立つのか立たないのかを0か100でしか見ることができない人は本当に視野が狭いと思います。

そういう価値観は人に押し付けるのではなく、本人が自力でそれをやるというならばそれを自己責任でやらせればいいし、やればいいんじゃないのかと思います。


2つ:人目を気にしすぎる

これ本当によくないなと思っています。

特にSNSの影響が大きすぎます。簡単にかわいい、かっこういい、綺麗、友達のネットワーク含めて無意識に飛び込んできますので、どう考えても多感な時期にそこに左右されてしまいます。

そのために見た目という1点だけで人は劣等感を抱きやすい。自分の良さ、強みなどがアピールする手段が視覚化しにくいものであればあるほどにさらにその強さは大きくなりがちだし、それが影響して自分の強みを磨くことを疎かにしてしまうケースも多く見ています。

こういう場合は適度な範囲で情報源を遮断する工夫と、自分自身の強みを活かす環境作りに時間も視点もずらしてあげることが必要です。


3つ:迷惑をかけるやつは悪だという思い込み

まさに今我が家の子供がこの気持ちが強すぎるようなので、少なくとも親には迷惑をかけていいということを植えつけている最中です。

お金もそうだし、学費もそうだけど、最低限、未成年である内はいいと。ただし我が家は早めにお家を出ていくように、自立しなさいよとはずーっと言い続けているんだけど、ひょっとしてこれがいけないのかな?(汗)


4つ:弱点は克服するものだという思い込み

特に日本の学校教育では大学受験含めて全体の総合得点で競われますので、苦手はことにも時間を割かなくてはいけないです。

しかし大人になったらより尖った部分が重宝されたり自分自身の強みとしてビジネスが展開できるようになりますし、求められる傾向にあります。

本来国語が得意だったら100点なんかで上限を決めるのではなくて、それを超えるパフォーマンスの評価があったほうが、子供達はより専門性のスキルや勉強を楽しむことができるし、より伸ばすことが可能なのではと考えています。

しかし今はそうはできないので、満遍なく勉強しながら自分の好きなことなどに時間を投下するということをやるしかありませんが、たった1教科の点数が悪くて落ち込んだり、劣等感を感じたりするというのは馬鹿げているというのが個人的な意見です。


5つ:清貧こそ美学という思い込み

これはビジネスの現場でよく発生していること出し、この価値観が強い人は副業や起業でうまくいかないんじゃないかと思います。

人間「欲」が原動力になりやすいですし、やりたいことをもっと積極的に表現していいはずです。出る杭は打たれるという諺がありますが、横並び大好きな私たちは突出する何かに嫌悪感を抱きやすいのだろうと思います。

それが能力や才能だけでなく、金銭が絡むとなおさら変な感情が動くことは多いですが、自分からすれば「は?」って思っちゃいますが、どうにもそういう免疫や広い心、多様性を受け入れる教育がまだ足りないのだろうとも感じることが多いですね。


6つ:失敗を極端におそれる

上記に書いたこととと複合的に絡みますが、結果失敗をしたくない気持ちがかなり強くもなります。

迷惑をかけてはいけない、人目が気になる、恥を書きたくない、清貧でいなくてはいけない。

これらの気持ちが強いと行動力が確実に落ちますし、大きなアクションができなくなります。

完璧主義、0ー100思考が強すぎると、テスト段階の試作品を表に出すことを極端に怖がったりするようになります。結果どうなるかというと、一発逆転の発想になったり、いい大学にいけばいい人生が歩めるとか、いいものを作れば売り上げはついてくるとかいうファンタジーの世界で生きることになってしまいます。

で、結果、そんなファンタジーはないという現実を突きつけられて、あぁ自分はダメなやつだと落胆したり鬱になったりしてしまう。

そういうエリートをたっくさん見てきています。

つまりそうなっちゃいけないということです。


現代社会は生きづらいところ
しかしそれも捉え方次第


現実世界は、どうしても完璧主義、ルールを守る奴が偉い、耐え忍ぶ奴が偉いといった風習が強制かされてしまいがちで、自由さや自分の意見を述べる人や自由な発想の人を叩いたり、煙たがったりする文化もあると思います。

ネットの世界では比較的この価値観は崩れてきてはいますが、日本だけでなく、世界ではいまだこの文化はとても根深く、また国民性や文化の浸透率から大きく変わることは当面ないのだろうなとも感じています。

それはある種そういう教育がされていて、変わっていないのだなとも感じているからです。


我々は人目に隠れて不真面目でもいい
真面目な要素は強みを活かすために活用しよう


じゃぁこれからどうすべきなのかについてですが、

私たち《真面目さ》を含めた価値観は、それが活きる環境を使おうということです。真面目さが活きる環境って、何かというと、それこそ良さのところで触れましたけど、思いやりが活きる場所。緊急性の高い職種、精密性が求められる職種、職場などではとても役に立つと思います。

一方でその真面目さが役に立たないときとは、スピード性が求められている環境下です。いち早くモックを作ってリリースして、あがってきた意見を修正してまたリリースするようなもの。マイクロソフトのwindowsなどが代表例だと思いますが、不具合だらけでもとにかく出す。直しながら運用する。

そういう世界もあるし、それでいいんだということです。

そしてなによりも大事なことは、自分でコントロールできないことに対して責任を負うようなことはしないことです。アドラーで言えば、自分の課題と相手の課題を切り分けるです。

これは人間関係でもそうですし、環境関係、社会関係でも同じことです。自分でコントロールできないことに責任を負うようなことをしていたら身が持ちませんからね。


決して真面目さや勤勉さが悪いのではない。それはむしろ埃だし美学でもある。けれどもそれが活きるコントラストと活きないコントラストがある。それを知る、活用するということが大事だということです。

もっとのびのびと活きるためにも人生はもっと楽に生きよう、適度に不真面目であろう。

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