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父不在、娘2人と母、時々祖母の家

父は海外赴任の仕事をしていた。
なので、父のことを思い出そうとしても記憶はいつもあいまいで。遠い記憶の中で、父が縁石の上を歩く私に「危ないだろ!」と怒ったことが唯一怒られた記憶で、それ以外の記憶がほとんどないに等しい。

おかげで母はとても強い人になった。家で娘たちが不満の声を上げたり、不安定になっても、あの時の母は男とか、女とかそういった概念を超越し、1人で父性も母性も獲得したような、スーパーマザーになっていたと思う。

そんな母に対して、違和感を隠しきれずにいたのが祖母だった。
祖母は時々母と喧嘩していた。スーパーマザーになった代わりに女性らしい細やかさを捨ててきた母に対して、ザ・一歩下がる妻であった祖母は「妻とはこうあるべき」という考えを捨てきれなかったんだと思う。

そんな典型的な嫁・姑問題を抱えながら、父は多忙で家に帰らず、ほぼ母のみの家庭という状況が、我が家最強の怒りの覇者、姉を生み出した。(と私は思っている)

私の姉は、元々神経が鋭敏で、些細な変化にも敏感に反応を示す人だった。
情に厚く、妹の私ができてからは、この弱弱しくどんくさい人間を私が守らねばと、保育園入園時には自分のクラスそっちのけで、わざわざ下の学級のクラスに妹の様子を見に来ていたほどだったそうだ。

そんな彼女の心持からすれば、あの時の家の状況や、そもそも海外からの転校という状況変化(※)は、とてもとても理不尽なものだったのではないかと思う。

※私と姉は父の仕事の都合で一度海外の日本人学校に通い、その後日本の学校に転校を経験している

日本に帰ってきてからの姉は、とにかく怒っていた。
うまく環境に順応できない自分への苛立ちと、感覚的共感や理解をしえない鈍感な家族と、家の中で母を謗る祖母の言い分に、ただひたすら怒っていた。

そんな彼女を「怒りの覇者」とわざわざ呼ぶ理由は、その怒りの使い方にある。
彼女はその怒りをエネルギーに変え、行動の原動力にすることにしたのだ。
自分の望みではなかった日本への帰国、および日本社会への順応をなかったことにすべく、大学で英語を話す力を身につけ、海外の就職先を見つけ、自分の願いを叶えるべく海外に飛び出していった。

怒りの覇者(姉)は今も怒る気持ち、その大事さを忘れていない。
他者の失言を許さず、不義理、不道徳を感じたら、真向から自分の意見をぶつけ、勝負を挑む習性がある。

そんな姉と、私は今絶賛、連絡不通の絶縁状態にあるのであった。

(また、後日に続きます)

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