デヴィッド・ボウイの死によせて

FBに非公開にしていた文章ですが、気に入っているのでこちらに掲載します。当時大学生でした。

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 ボウイへの入り口はたくさんあった。
 音楽的な経路で一番印象的だったのは、イエローモンキーを好きになって、ジギー時代のボウイとミック・ロンソンを知ったことだと思う。他にも、バクチク→デルジベットという経路や、ラルク→マリリン・マンソンという経路もあった。音楽以外で言うと、嶽本野ばら、8ビートギャグ、市川哲史、『戦場のメリークリスマス』がボウイを教えてくれた。つまり、中高生の間に私が好きになったものの、ほとんどすべてのゴール地点にボウイがいた。

 斜に構えた十代の私にとって、この得体の知れないおじいさんは衝撃的だった。音楽、ルックス、メイク、思想、すべてに夢中になった。京都に行くときは、「京都にはデヴィッド・ボウイの別荘がある」とかいう、2・30年前くらいからデカダン趣味の少女たちの間に伝わるデマに勝手にドキドキしていた。

 ボウイは私に「何がかっこいいのか」「何がオシャレなのか」を教えてくれた。アンディ・ウォーホル、ぼんやりとした東洋観、ナルシシズム、エゴン・シーレ、数え上げればきりがないほど、今の私の審美眼にボウイが基準として存在している。

 そのボウイが先日亡くなった。1月8日は彼の誕生日であり、『★』の発売日でもあった。私はその日、フェイスブックに投稿されていた「Lazarus」のビデオに目を通して、「ボウイもこんなヨボヨボになるんだなぁ」と少し悲しくなりながらイイネを押した。その日はイエローモンキーのツアーが発表されて、それどころじゃなかった。
 その二日後、布団の中で携帯を触っている時、ニュースアプリの速報で私は彼の死を知った。

 不謹慎だが、私は「好きなアーティストが死んだとき」の想像をすることがクセになっている。打たれ弱いので、一番悪い想像をして自分を落ち着かせたいのだと思う。「あの人がもし死んだら、自分は、世間は、どんな反応をするだろう」という想像を、今までたくさんの人びとに当てはめてきた。
 でもその中にボウイはいなかった。年齢で言えば彼は一番想像に難くない存在だったが、私は彼の死んでいる世界を想像することができなかった。そもそも私は彼の年齢に興味がなかった。化粧をしていようが、しわくちゃのおじいさんであろうが、火星人であろうが、彼に対して”デヴィッド・ボウイ”という記号を認識できれば私は満足だった。
 そのボウイが死んだ。速報を見て、ネット記事を読んで、その日のニュース番組で報道を見ても、私は彼の死を正確に認識できなかった。ショックと言うよりは、「よくわからないけどソワソワする」という感情でいっぱいになった。
 翌日のフェイスブックはボウイへの追悼メッセージで溢れかえっていた。一番驚いたのはKMFDMがメッセージを投稿していたことだった。ここにきて私は新たなボウイへの経路を発見した。

 昨日の晩、私はボウイのベストアルバムを聴きながら、昔集めた雑誌を読み返し、自分の描いたスケッチを見返した。3年前に有名なボウイの写真を模写したもので、自分ではけっこう似ていると思っていた。しかし、久々に手元にある雑誌の写真と比べてみると、私の描いたボウイは面長で間抜けだった。


 何となくボウイに申し訳なかった。私はもっとうまく描きたいと思ったので、別の写真を模写し直すことにした。夜中の2時から朝5時半までかかってスケッチした。今度の絵は3年前のボウイよりは似てる気もするが、本物より顎が大きくなってしまった。あと、何年経っても私は髪の毛の描き方がわからなかった。


 3時間半耳と目でボウイと向き合ったことで、私はやっと彼の死を認識することができた。思春期の気恥ずかしい思い出であり、自分の審美眼の基準を作ってくれたボウイ。そのボウイが死んだ。私はやっと悲しいと思うことができた。

 ボウイの作品やスタイル、精神はこれからも私の中に残っていくと思う。しかし同時に、私の中でのボウイの影響力は、徐々に薄くなってしまうとも思う。だから私はこうして、彼の思い出を書き留めて、スケッチを残して、ふとした瞬間にボウイを思い出すためのきっかけを残していかないといけない。今私が感じている気持ちは、一生のうちのほんの一瞬に過ぎないけれど、この一瞬は「ボウイの死」がもたらしてくれた、二度と経験することのできないものだから。

 改めて、大切な思い出をありがとう。私はあなたが大好きでした。

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 私が思春期を過ごした大阪南部はレゲエやダンスミュージックを聞く文化がとても強い土地柄だったので、ティーンエイジャーの時に上記のような趣味趣向を共有できる友だちを作れなかったことは今でもコンプレックスとして残っています。(おそらく、たいていの地方出身者にありがちな経験だと思いますが)

 しかしながら、その経験のおかげで独自にはぐぐまれた自分の審美眼を大事にしようと思えるようになりました。そして、「まわりと違う」人に対して特に何も思わない大人になりました。

 「まわりと違う」人のおかげでうまれてきた人類の文化に感謝するとともに、その恩恵をすこしでも自分のものとして昇華できるように、アウトプットの機会を増やそうと思います。

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