見出し画像

フェデリコ・フェリー二「8 1/2」(1963)

 映像の講義を担当するので、自分が良いと思っていた映画を見返している。中でも、ゴダールと並んで楽しみにしていたのは、フェデリコ・フェリー二(1920-1993)だった。フェリー二作品のマルチェロ・マストロヤンニ(1924-1996)がお気に入りで、マルチェロが亡くなった時には当時担当していた番組で、司会の関◯さんに「マルチェロが亡くなったニュースをやりたい」と直訴したことを覚えている。残念ながら、採用されなかったけれど。
 フェリー二は、カーニバル(祝祭)的な混沌を愛する監督だといわれる。「道(1954)」ではそもそもジプシーが主人公であったし、道化など非日常の人々が織りなす祝祭の混沌の中に、人生を見出そうとする。と勝手に思い込んで、生きてきたのだが。
 初めて見たのはおそらく30年以上前の大学生の頃で、その後も折に触れて見直してきたつもりだったが、最も冷静に(寝落ちしないで)140分を見通したのは今回かもしれない。できるだけネタバレしないように書こうと思うが、勝手な感想を書くことを容赦されたい。

 まず、映画が「長い」と感じてしまった。先日、ドラマのプロデューサーをしている後輩に話を聞いたのだが、印象的だったのは「昔のドラマはテンポが遅くて、現代では通用しない」という発言だった。かつてのテレビ・ドラマは4カメ以上で同時に撮影して編集するという手法が多かったという(NHKの大河ドラマは、今でもやってるらしい)。でも今では、細かくカットを割って、多くても2カメで丁寧にカット撮影を重ねていくのが主流なのだそうだ。いわば、ワンカットの完成度を凝縮して撮るわけで、韓流ドラマが長いと言っても、およそ90分以内にギュッと締まった作品が多くなっている。(実は、先日「道」を見ようとしたのだが、見事に爆睡してしまった。。。)

 そして、ヌーベルバーグでもお馴染みの「自問自答」方式。映画の出演者自身が、まさにその映画について語るというこのパターンが(大好きだったはずなのに)なんともまどろっこしく感じてしまったのであった。これまた、ストーリー展開の速い「現代風」に侵されてしまっているからだろうか?
さらに主人公が妄想して、その妄想が解けて元に戻った時に、ストーリーがまったく進展していないことに少しイラッとするのである。どんなクラシックの名作でも、いつか色あせていくということなのか?映像も傷んでいるので、いつかきれいにリマスターされた時に、同じ感想を持つのか気になるところである。

 一方で、個々の役者の演技や美しさは、劣化していない。マルチェロの軽やかなステップ。クラウディア・カルディナーレの美しさ(特に足を揃える名シーンの感動は健在)。そしてアヌーク・エーメの知的な美しさと硬軟の演技。また、道化的な伏線が、見事に拾われていく脚本の納得感もお見事。
「人生は祭りだ。共に生きよう」というメッセージも、年をとったせいか違う感じでドカーンと来た。思えば、おいらも披露宴で引用した言葉ではなかったか(映画でも『結婚した日を思い出せ』と、ううむ)。
 やはり、これは現代の大学生に見てもらって感想を聞いてみたい。さて解説をどうしよう。。。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?