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[2000字エッセイ#3] 「出会い系サイト」としてのボーカロイドとニコニコ動画

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 連日の雨で、梅雨の接近を連想する。大学の助手のアルバイトの休憩時間、30分間だけ文章を書いてみようと思ったので、パソコンを開く。昨日は過去に自分の作った動画を2分に縮めてTwitterのタイムラインにアップロードした。実のところ、自分の作ったものが広範囲に拡散され続けることにはどこか気持ち悪さも抱えているが、この気持ちこそ、自分の作ったものに対する自信そのものだと信じている。せめてこの感覚が自分の過信でないことを祈りたい。

 あらゆる自己表現には「気持ち悪さ」があり、私たちはそれに駆動させられることで多様な芸術体験を求めてきたのではないだろうか。あらゆる自己表現は屈折した自分自身の表象であり、その屈折加減に美的、倫理的な基準はない。受容者はそれらを前に自由に連想し、表現の背景に隠れた屈折を解消することで、その内面を想像する。そうやってあらゆる作品が生産され、そして受容されてきたことを主張したのは、数十年も昔の芸術心理学者であるエルンスト・クリスだった。彼の議論に従えば、私たちは芸術を通しても相手と意思疎通することはできない。私たちがありのままの自分を伝達することができる時代は到来しないのだ。だからこそ、私たちは芸術から互いを知ろうとしたり、あるいは他人の表現を通して勝手に意味を生成し、納得したりを繰り返す。そうやって私たちは連帯し、芸術作品に対する価値判断を作り出してきた。

 そんな中、ボーカロイドは一つの「楔」として、他者をつなぎ止めて想像的共同体を生み出すツールとして、ニコニコ動画に君臨した。初音ミクというキャラクターが2000年代のピンポイントな萌え要素の集合体として登場していることから分かるように、ボーカロイドはアングラ文化から生まれてきた。インターネットの悪い場所としてのアングラ文化は1990年代末のネット掲示板から始まり、いまや綺麗にシステム化された情報化社会の中では居場所を失っている(強いて言えば「ダークウェブ」と言われる領域にあるのかもしれないが)。2000年代、ニコニコ動画のコンテンツはYouTubeの日陰のもとで共有され、かつ匿名性を強く保持したアングラ文化の影響を受け続けた。それゆえに、動画につけるハッシュタグや安直なコピペ構文から私たちは自分自身の精神的な所属を明らかにし、無限に連帯していったのだった。

 このような連帯はすでに30年ほどの歴史を持つWWWの歴史の中でも場所的、時間的に特異的なものであり、ニコニコ動画はそれゆえに拡大できた。表現の発信と受容に範囲を絞りながら、芸術心理学の話に戻ろう。私たちの自己表現はそもそも、相手がいて初めて成立してきた。屈折した自己表現は相手に解体されることによって、新しい意味を帯びる。だからこそ、私たちはハッシュタグやコピペ構文によって連帯し、一人ではできない繋がりを作り出してきた。そうやって、私たちは一人ではできないことを成し遂げてきた。私たちは一人では駄目だったのだ。このような現象はインターネット発祥の地、アメリカでもほとんど見られない現象だ。科学的な概念を用いれば、あるいは「創発」といわれるものかもしれない。私たちは楔をもとに想像的共同体をつくることで、一人の要素の集合を超える新しい可能性だって生み出すのだ。

 まるでアニメキャラの萌え要素の集合体として登場した初音ミク、そしてそのキャラクターを一つの楔とすることで、未知との遭遇を求め続けるニコニコ動画の投稿者たち。ニコニコ動画の原風景とは、このようなものだったと思う。初音ミクやボーカロイドを手にすることによって互いを発見する私たちは、いわゆる出会い系サイトの利用者と大して変わらないだろう。しかし、私たちはそもそも出会いたいから、初音ミクを使用してきたのではなかったのだろうか。でなければ、私たちは一体、なぜボーカロイドを歌わせているのだろう?2010年代も過去のこととなった今、かつてのニコニコ動画は今や存在しないのは当然だが、ニコニコ動画上でボーカロイドが楔となって多くの人々が連帯し続ける状況は相変わらず健在だ。かつてのアングラ文化がもはやそのままでいられなくなった状況で、いまやこの連帯をいつまでも維持し続けることは難しい。ボーカロイドを「踏み台」としてメジャーに進出する人も多くなった。私たちは今一度なぜ、ボーカロイドを使うのか、その問題に真摯に向き合っていく必要があるのかもしれない。

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