集合体への諦念・リアルな景色——「思考実装#9」にあたって
ときおり、突然海を見に行こうと思うことがある。大学受験のとき、どうしても海を見に行こうと思い、朝から新快速に乗って福井県の敦賀まで行ったこともあった。結局、海は見られなかった。あの頃はまだ自由な行動もできなかったから自由に図書館に行くこともできなかったものだが、一人暮らしを始めた今では自分の裁量でどこまででも行ける。不意に大阪湾に向かったり、あるいは京都市内からは遥か彼方にある須磨まで行ったりしたこともあった。この文章を書いている今、私は快速列車に乗りながら、神戸と姫路の間を往来している。
海を見に行こうとは思うのだが、一方で海についてしまうと途端に興味をなくしてしまうことが多い。そのたびに、自分は海に行きたいのでなくて、海に行くまでの旅の過程が好きなのだと思い返す。大学生だったころ、実家から大学まで朝ラッシュにもまれながら2時間弱かけて通学していたが、思い返せばそれほど苦じゃなかった。今でも図書館司書の資格を取りに2時間半以上の時間をかけて別の大学に通学しているが、朝が早いことを除いて、以外に悪くないなと思っている。移動時間中が一番、本を読んだり考えたりするのがはかどる気がするからだった。自宅だと別の、しなきゃいけない作業がある。かといって、椅子と机があると、たちまちパソコンでTwitterを触りだす。常に動く電車の中で、卓上にいろいろ書類を出せない環境だからこそできることもあるのだろう。飽きたら電車から景色でも眺めればいいのだから、何となく気楽になる。電車の中で巨大なディスプレイは持ち出せないので、私はノートパソコンの電源を付け、光がともったたった10インチの画面に照らされたこれまでの自分の動画を見直してみる。
前作のアルバム「言語交錯」がそうであったように、「思考実装」という名前で作成されたシリーズは当初から10曲で完結させる計画だったのだが、気づいたらもう9曲目になっていた。締めくくりとしてどのようなものを作ろうかといろいろと試行錯誤もしたのだが、シンプルに弾き語りのような曲にしようということだけは初めから決めていた。前作と同じく10曲構成として構成することを目標にしていたこともあり、実は当初から「言語交錯」と曲を対応させることを裏で意識していたのだが(実装#7では、実は「崇高は倒錯されるのか?」のギターをそのまま採用していたりする)、そう考えると本曲は「残しておくべき意思はあるか?」に呼応させなければならない。2020年の誕生日に作った曲で、合成音声音楽との対話を意識して作った曲だった。いろいろな考えがあったとはいえ、当時の自分の考えは紛れもなく「新しいもの」を検討することだった。『言語交錯』の冊子を見ると、自分が自分について語ることそれ自体が、他の誰にもジャンル分けできない要素を持っているという旨が書いてある。
他の誰も持っていない。自分自身の唯一無二性。私はそれを「血液」と称した。私は合成音声音楽を通して、インターネットを通して自身の血液を他人に見せびらかしている。私たちは電波上に自身をささげることで電波を通して誰かとつながってきたのだが、それらが過剰になった結果、私たちはいつしか電波上に流した自身の血液を失い、視覚的にわかるものに縛られてしまうことも多くあるだろう。だからこそ、私たちは今一度、血液を必要としなければならなかったはずだった。
個人ごとに異なる遺伝子情報を内包する血液は、それを通して自分自身が何者かを相手に見せてくれるだろう。だが、唯一無二性を持つ血液はその性質ゆえ、永遠に孤独なままでもある。作られた何かが電波を通して相手に届く際、その時に相手が受けるものを自分が届けようとしたものは全く異なってくる。私が今見ている10インチディスプレイと、自宅のデスクトップパソコンにつながれた大きなディスプレイでは、伝わるものは大きく異なっているだろう。その違いは、考えていることが全く違う「私」と「あなた」の間でも同じのように思える。
電波にからめとられてもいけないし、かといって唯一無二な血液を求めていくことには限界がある。それはどこまでも孤独な作業であり、そのような孤独さを受け入れるのなら、そもそも電波を使わなくてもいいのではないだろうか。だからこそ、電波に合成音声音楽を流す私たちに必要なのは、孤独になることでも電波に支配されることでもなく、得体のしれないような集合体となることなのではないかと思う。情報空間上で私たちは名前を失いながら、互いに何者であるかも知らないような得体の知れなさを含みながらも、互いに一つの共同体になることを試みてきた。そんな得体のしれない共同体の可能性が、電波を通して会話をする私たちにはあったはずなのだ。そうして私たちは互いの名前を失いながら、何者にもならないような選択をとりながら、自己消失しながらも新しいものを生み出してきた。
だが、何者にもならない選択は逆説的に、私たちが何者かであることを示している。電波で名前を失うことを希望するのは、私たちが名前を持っているからだ。どれだけ電波上で私たちの名前を消失させ、集合的で透明な存在になろうとも、それを望む私の血液はきっと赤いはずだ。だからこそ、私は私の全てを記述する。この手を、この指を、この爪を、この皮膚を、この身体を、この弦を、この電波を、この通信を、この線を、この音を、この画面を、この合成音声音楽を、この映像を、この日々を、この生活を、そして私のすべてを。電波上で透明になるのでもなく、情報空間上のゾンビになるのでもなく、得体のしれない「誰か」であることを引き受けながら曖昧なかたちで電波の中をさまようこと。そんな不安定なものが必要とされる。
かくして、この合成音声音楽は不安定なギターの上にのっており、ある意味で一つの結論を提示している…と、思っている。というのも、全ては曖昧だからである。あらゆるものが曖昧になっていく果てにあるのは、目に見える事実だけだろうか。少なくとも、電車の窓越しに見えるこの景色は、私にとっては紛れもない本物の景色に見えている。
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