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新しい音楽を始めるために——「思考実装#1」にあたって

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2021年の初夏。けだるい暑さから逃げるように部屋の外に出た。

最後に音楽を作ってから、もう3カ月は経過しようとしていた。忙しくて何も作れなかった私は、一方でどのようなものを作ればいいかを悩み続けていた。こうなることは、2019年に10曲の区切りで音源集を出すことを決めたあの時から、すでに決まっていたことだった。あれらは今でも、私の中での最高傑作のままである。そして、それを乗り越える方法を考えることが、今の私の課題である。

照りつける京都の日差しが8階の住まいにとっては耐えられない暑さとなって、私は自転車でどこか涼しい場所へ出かけようとする。京都市は南に降りるほど、下り坂だ。帰りの自転車が上り坂になってしまうが、私は南向きに自転車をこいだ。特に目的は決めていない。とりあえず動けば何かに当たるだろうと、私は自転車で走るだけだった。

この文章は、私が浴びている照りつける日差しを聞き手に想像させられるだろうか。かつて私は、新しい言葉を見つけるためにどのような試みができるかをめぐり、いろいろなことをしてきた。それらはある程度の枠組みの中で、明確な目標を持って作られた。だが、それらの実践は不完全な結果となり、さらなる試みを今後の私に要求してきた。

これから、私は何をすべきなのだろうか。言葉にこだわり続けた私は、それが持つ曖昧さが私たちのすべてを解釈の世界に閉じ込めていること、その曖昧さこそが私たちに新しいものを提供し続けてくれることを、これまで訴え続けた。私たちの言語の曖昧さは、京都市内を自転車で駆け降りる光景を聞き手の頭の中に無数に想起させる。言葉を受け止める過程で、私たちは言葉を耳で受け止め、そして脳内で理解し光景を作り上げる。そこには、私たちの解釈の中で必ず必要な、極めて短い時間がある。言葉の意味を解釈するためにわずかな時間が必要なのであれば、時間を伴う創作手段である音楽は、いったい何ができるだろう。

言葉に限らず、得体のしれないものに直面した私たちはそれを解釈するために時間を費やす。得体のしれないものとは私たちの知らない別世界の言語だけでなく、唐突に目の前で起きた事故や、あるいはこの定期的に組み込まれる不快な音である。得体のしれないものに対する解釈の枠組みをこれまで持っていなかった私たちは、それでも新しい解釈による乗り越えを試みる。この隙間に、私がこれまでおこなってきた言葉をめぐるいくつもの思考を、音楽として実装するための余白が隠されているのではないだろうか。一定時間で挿入される不快な音は私たちの意味を解体し、これまであった世界と全く異なった新しい世界へ、私たちを連れて行ってくれないだろうか。

この隙間より、私は言葉が一人ではなしきれない世界を音楽と映像とともに探しだしたい。その終着点はまだ決まっていないし、何が生み出されるかは予想できない。この音楽がそうであるように、得体のしれないものが錬成されていくのかもしれない。しかし、そこに安直な意味を見いだしてはいけない。もう引き返すことはできない。私たちの生み出している得体の知れない何か、その得体の知れなさを思考することが、私たちの新しい世界だ。

解説、なんて言葉を使えば何か自由に書くことができるかと思っている自分がどこかにいることを、ここまで用意して自覚する。本楽曲は特に大きな背景を持っているわけでもなければ、そもそも「曲」の必要十分条件を満たしているかさえ、微妙なところにある。しかしながら、私はこの曲を作る必要があったし、この楽曲のいたるところに、私が込めるべき文章を込めたつもりだ。すべては内部で語られた。だから、私はこの楽曲を前に、何を語ったらいいのか分からない。

2021年3月に『言語交錯』と称して公開してきた10曲を1枚にまとめ、オンラインで販売した。それらは今でも私の中で最高傑作だが、そうした傑作を前に、次に何をしようかを考えていた。「言語交錯」と称したアルバムは、私の人生上の大きな問題から「言語」がテーマとなり、言葉の枠から縛られない新しい世界を言葉によって作ることを目標に作られた。だが、その最後の結果は、「言葉を扱う覚悟はあるか?」における自分自身の人生をあるがまま語ることだった。そうした私の考えの帰結が、『言語交錯』9曲目にあたる「残しておくべき意思はあるか?」の遺書のようなやり取りである。

そうして終結した「言語交錯」の先で、これから何をしよう。これまで私は言葉の不可能性と限界の向こう側に言葉で挑もうとしていたが、そうした新しい言葉を捜索/創作するための言葉の強度は、私たちが常日頃使用している言葉によって支えられる。新しい言葉すら言葉であるという点において、私たちは永遠に同じ地点を離れることができない。だからこそ、「言語交錯」は最終的に自分語りで終了してしまった。それは私の帰結として何より意義あるものであったと思うが、そこからさきにどうしたら進めるのだろう。

そのとき、自分が音楽を作っているということを、私は今一度思い出すのだった。言葉の限界を前に、その限界を言葉で表現できない要素によって補うことで、何か新しいことができるのではないだろうか。「言語交錯」はどこまで行っても言語のことに終始したため、それがなぜ音楽である必要があるのかについては私にも理解できなかった。だからこそ「言語交錯」の限界を音楽をもって乗り越える可能性を、次に私は考えるべきであるという結論にたどり着いたのだ。「言語交錯」で得た私の思考を、音楽の中に実装する——ゆえにここに「思考実装」という、新しい言葉が生まれた。

その1曲目としてつくられたこの曲は、もはや音楽と称していいかも分からないような領域にある(なお、音楽系のタグはタグロックしなかった)。音楽は「楽」という文字ゆえに娯楽的なものでなければならないというイメージを持っていしまいそうだ。だが、実態はそんなことはなく、私が作り上げた私の生活のパッチワークそれ自体さえ、音楽と言えないだろうか。だが、日ごろ音「楽」に親しんだ私たちは、こうした日常生活をもはや音「楽」とみなしてくれない。そこで、私はこの音「楽」を「音楽」にするため、定期的に規制音(テレビでの不適切発言を消すために使用される音)を挟み込むことによって、これを「音楽」にした。そうして、私はこの映像を提供することで、音楽とそうでないものの境界線を行き来しながら、そこに生じてくるさまざまな隙間に思考を挟み込むことで、新たな「思考実装」が生まれてくることを望むのだ。

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