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透明な集合体を目指すこと——「思考実装#8」にあたって

※この楽曲は『無色透名祭』にて投稿されたものに再編集を加えたものです。
元リンク:https://www.nicovideo.jp/watch/so40804464 

この記事は自由に価格を付けられます。https://paypal.me/ukiyojingu/1000JPY

透明になることを望んでいる。
誰しもが名前を消し、まるで瓦礫になって意味から逃げようとして、そして失敗する。
一つになれない私たちは揃ってそれを否定し、名前と意味に縋りつくのだから。
そうやって、別れを告げよう。
私たちが失うものへ、わずかながらに、愛をこめて。
 
色が消えてしまうことを望んでいる。
私たちは元々、電波の中で無色透明な自身を、ずっと抱きしめてきた。
血液に色はなく、自身が何者であるかを示すこともなく、ずっと生きてきた。
半身から汚染が始まることも、秩序もなく、そこにただ「私たち」が自然発生していたのだった。
 
名前から逃れることを望んでいる。
自由になれない時代で、どこまで行っても私たちは透明でないことが証明されてしまった。
電波に曝され続けた半身は、私の意識を少しずつ解体し改善するようなプログラムに侵食されている。
その中で、私たちを解体して再構成しない選択肢はあるのだろうか。
 
情報空間上の私たちは、かつて生まれながらに透明だった。
誰もが名前を放棄して、自然発生する透明な集合体に身を任せていた。
そうも生きられなくなった今では、誰しもが名前を抱きしめることを強いられる。
この世界のなかで、透明な存在であることが何よりも貴重なことになっていく。
 
だからこそ、私たちの誰もが透明を望む。
あらゆる感情がジャンル分けされるなか、そこから逃避できる自分自身を手に入れようとする。
そうして、私たちは「何者か」になりたがる。
自己を棄却する純粋に透明な身体から、自己を証明するための透明な身体へと、私たちは移り変わるのだ。
 
私たちはみな、「何者」かになる私を愛している。
それは何者かにさせられることに対する、何者かになるための私たちの方法だ。
だが、私たちの不可逆な現実だって無視できない。
いつの間にか捧げた半身から身体の数学化が進行し、最後に支配されてしまうことを恐れている。
 
だからこそ、真の意味で「何者」にもならない方法を探すのだ。
無色で透明な、名前が必要とされない選択肢を探すのだ。
名前を得るためではなく、解体された私たちが等しく世界から
消え去るために。
無意味で不愉快に切り取られた断片から集まり、引き裂かれた私の半身と、心中するために。
 
疑心と違和感で構成された、私の合成音声音楽は語りかける。
私の疲れた日々を記録するため。
私の無意味を垂れ流すため。
それが集まり、一つになって消え去る選択肢を探すため。
そうやって、どこまでも一緒に行こう。
私たちが透明だって、愛せるように。
 

私は身体の数学化(https://www.nicovideo.jp/watch/sm39224978 )を恐れ、自身の唯一性を証明してくれると信じていたものが電波に侵食されることに危機感を持ちながら、それでも流し、顔も知らないあなたへ送信する。どれだけ慎重に送信しても、この言葉が伝達過程で無数もの意味の組みかわりの果てに全く異なったものへ返信するのならば(https://www.nicovideo.jp/watch/sm40952503 )、私たちは唯一無二の「血液」たるものを証明はできるのだろうか。私が抱きしめ続けている半身(https://www.nicovideo.jp/watch/sm40364529 )は私たちが情報空間上のゾンビにならないために必要なものだ。だが、その半身をもって私自身の唯一性、半身に未だ流れている血液のようなものを世界に発信しても、それは相手に伝達される(解釈される)時点で、唯一性は失われているのではないだろうか?

私たちの唯一無二の血液が本当の意味で唯一無二なのだとしたら、それは誰とも共通していないという点において孤独な存在だ。だが、そんな孤独さに価値を見いだし、追求していたら、恐らく私は電波に音楽を流していなかっただろう。なぜなら、孤独と集合は真逆に思えるからだ。私は自分の唯一無二の血液、電波上で未だ捧げていない己の半身を抱きしめるとともに、電波に流したもう半身を、情報空間に投げる。そうやって、電波のなかに集まる多くの匿名たち、多くのデータとともに、どこまで行けるかを見てみたい。集合化したい半身と、消去しきれない半身を抱え、私は生活を送る。

(以下、無色透名祭に際して公開した記事(2022年7月31日公開)を引用し、改稿したものである。)

 2022年7月28日から31日にかけて、無色透明祭は奇しくもFUJI ROCK FESTIVAL 2022と同じタイミングでの開催となった。コーネリアスのライブ映像を見ながら、もはや常軌を逸したかのようなリズム感と映像との一体感を感じつつ、私はこの文章を今書きながら、同時にTweetDeck上で自身がエントリーした無色透名祭楽曲をモニタリングしている。タイムラインにはエントリー楽曲全体のデータを収集し、分析しているツイートも見かけたが、それを見る感じだと、少なくとも上位10%に自分の曲は入り込んでいるようだった。こうして数値として反映されるのは個人的には何とも皮肉な気もするが、しかしこうして数多くの人々に見てもらえたというのは光栄なことでもある。

 この文章が公開される頃にはすでに周知されているのかもしれないが、私は無色透名祭にて「無色で透明な私たちは互いに融合しながらも、他方で消えない血液と己の半身を希求する。 だからこそ、私は互いを解体させられるほどの、血液たちの接触と消失を望んでいる。」という楽曲でエントリーした。実は8分台の曲は自分だけらしく、全エントリー楽曲を含んでも断トツで映像の時間が長いらしい(実は制作初期段階では9分間だった)。自分は曲を作成する際、10曲で1枚のアルバムを作成することを基準にしており、最初期の英単語で構成されたアルバム2枚(9月に再編集して1枚のアルバムとしてリリースの予定)と、日本語の疑問文で構成したアルバム1枚(「言語交錯」)に続いて、「思考実装」と称したシリーズを作成している。無色透名祭のルールにのっとって、本楽曲ではいつも使用しているフォントなど使用できなかった点もあるのだが、一方で楽曲タイトルはいつも通りのままだ。だからこそ、私は特に無色透名祭でそれほど無色になることを考えていなかった。というのも、私たちは無色にはなれないと考えていたからだ。さらに言えば、「無色で透明になること」がこの無色透名祭の本当の目的ではないことも分かっていた。

 私はずっと、情報空間上で互いが電波を通して一つになるようなユートピア(あるいは全体主義的なディストピア、ともいえるのだろうが)を望んでいる。それはこの楽曲内でも語られている通り、在りし日の匿名掲示板のなかでなされる無数のやり取りであり、そしてそのやり取りのなかで突発的に生じてくる得体の知れないもの、全くもって無意味なものこそ、集合体が生み出す強力な力であり、かつて夢みられてきたインターネットが世界を変えるかもしれなかった可能性の断片だ。2ちゃんねるはモナーを生み出し、最初期のニコニコ動画は初音ミクにネギを授けた。そうした想像性は今、おそらくはかなり力を失った。私たちのあらゆる要素がデータへと変換され、処理されて表示されていく状況があるのは間違いないだろう。私は以前に「価値と承認に汚染された我々は、いつしか捧げた半分の身体に支配権を奪われていた。だからこそ、私は私の正気を取り戻すため、血の滲んだこの映像を電波に流す必要がある。」という曲を投稿した際、私たちは合成音声音楽を使用する際において音楽において唯一無二の自分だけが扱うことができるツールを委ねることで電波上で自身の作品を拡散させることを「半身を捧げる」といった。それは私が先に述べたような情報空間上のユートピアを作る可能性だってあったわけだが、一方でトマス・モアが『ユートピア』で述べているように、ユートピアはディストピアとも表裏一体なのだ(トマス・モア 『ユートピア』平井正穂訳、岩波書店、1978年1月)。電波上で自身の声を犠牲にして繋がり、共有されて行く過程は、ある意味で自身の名前を犠牲にすることでユーザー同士が繋がり、一体化を目指していく点においては在りし日のネット文化の可能性とも近い。しかし、在りし日のネット文化は既に遠く後景となり、私たちは今、捧げた半身——情報空間上に捧げることによって、エンコード化された自身の半身——に、むしろ動かされている。無論、インターネット上に創作物を投稿する私たちは全員が「誰かに見てもらいたい」と思っている。それは無視できないが、かつてないほどに情報空間が重視され、あらゆるものが効率的かつ優しく用意されるこの時代のなかにおいて(無色透名祭のエントリー曲全体の長さが3分台という短い曲で構成されているのも、この事実を後押ししてくれるだろう)、私たちは数値として変換可能なデータに身体を支配されているのではないだろうか。ただ純粋に情報空間のだれかと繋がるためだけに捧げられた半身は、いつの間にか数学化された社会で地位を得るため、いまや身体全体の支配権すら握っている。これを私は「情報空間上のゾンビ」と言った。

 私は誰かと繋がり一体化して、そして匿名の存在として、最後にみんなと消え去ることのできるような、誰一人捨象しない世界をインターネットに見ていた(=「血液たちの接触と消失を望んでいる」)。しかし、現実はそうはいかない。無色透名祭は7月31日の18時ごろに、楽曲制作者の名前が希望制で公開され、それぞれの無色で透名な楽曲たちは元の家へと帰ることになる。例によって私も帰ることを選んだのだが、それは何より、たとえ最後まで名前を公開しなかったとしても、私たちは最後まで正体不明になることはできないと考えたからだ。先述の通り、7月28日からの3日間、私は自身の楽曲タイトルをTweetDeck上で登録しつつ、数多くのユーザーが自分の曲を共有してくださるのを見ていた。当然のことながら、多くのユーザーが自身の曲を各自のタイムライン上で流してくださることには感謝の言葉しかない。この文章含め、イベント期間中に自分の創作物に触れてくださった人全員のTwitterを、恐らく私はフォローをしに行くだろう。それくらいに、感謝している。その前提の上での話なのだが、自身の曲が公開され、リアクションやコメントのなかで、いろんな人が自曲の制作者を推理してくださっていた。私にとってこれらのコメントは、自分が何者であるかを理解できると同時に、自分の抱える問題も隠さず明らかにしてくれるので、全てのコメントを大切にしようとは思う(多少、神経質すぎるかもしれないが…いろいろ考えることもある)。今回の無色透名祭はボイスロイドのポエトリーリーディングが多かったらしいのだが(上記のnoteはボイスロイドでポエトリーリーディングをする「POEMLOID」についての説明がされている)、名前を隠して投稿した私の楽曲は、期間中にいくつかの自分ではない人の名前とともに共有されることも多かった。それには自分自身が感じるべきいくつかの負い目とともに、無色ゆえにいろんな人に変身できる可能性だってあることも感じられた。一方で、やはり名前を失ってもなお、私たちは何かしらの名前を付けてしまう。自身の唯一無二性——個人を判断、特定可能なものとしての「血液」という言葉を、私は用いている——は、今や何よりも重要な要素なのだろうと思う。やはり、どこにも名前を無くす、血液を透明にする可能性はないのだろうか。

 私は全員が名前を失ったことで得られるような、ある意味でのユートピアを夢見てきた。それは実際には実現できなかったし、むしろユートピアの裏返しとしてのある意味でのディストピアさえ、今の私たちの周りには存在している。だからこそ、私は名前を失う方法を探して、名前を失った全員とともにインターネットの深い闇へと沈んでいくような可能性を探したい。こうした考えについてはちょうど先日に発表された『青春ヘラ』にて「血液たちの濃厚接触」という論考で少しだけ執筆させていただいた(詳細については別日に執筆したnote記事を参照されたい)。今回の無色透名祭は、そのある意味での実践と取れることができたのかもしれない。最終的に、今回の無色透名祭で私が具体的に何を得られたのかについては、私もまだわからない。この時点で判断するには時期尚早だろう。この続きについては、11月に公開されるアルバム「思考実装」の完成で何かしらの形となればと思う。

2022年10月17日追記:
本楽曲の公開から数か月のち、無色透明祭にて投稿した動画を思考実装の体裁に沿った形で再公開した。
10月8日0時に投稿された楽曲は「ボカコレ2022秋」の本格的開催とほぼ同時期に公開したものであったが、本楽曲は規約違反であるだけでなく、リアリティのある自分自身をランキングの外部で表現する可能性を探求することを念頭に据えるため、「ボカコレ2022秋ランキングTOP100」へのエントリーはあえてされなかった。

「私たちはみな、『何者』かになる私を愛している。」
この動画は「透明」をテーマに作られ、無色で透明なものを追求する方法を考える実践だった。しかし、誰しもが数値とランキングを追求し、皆が「何者」かを求めたがるボカコレという環境、或いはこの時代に対し、その裏側を照射することができるような可能性もあると考えている。「アンチ・ボカコレ」を自称する多くの曲がランキングにエントリーされているこんな皮肉な状況に対し、エントリーされていないこの動画だからこそ、できることがあると考えている。


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