私はいつも、楽曲を作ってからこの文章に何を書くかを考えている。何を書くか、どれくらい長い文を書き込むかは、その都度でかなり異なっている気もする。長いときは非常に長いし、短いときはかなり短い。実装#2を公開した際には、約8,000字くらいの文字で構成されたポエトリーリーディングを前に力尽き、そもそも何も書けなかった。2021年7月の1か月間に書いていた日記をそのまま抜粋した曲を作り、映像にして公開してからもうすぐ一年にもなるのだが、あれを作った8月の日々は自身の創作の中でもかなり大変な時期だったように思える。それくらい、8月に投稿された私の記録は、私にとって大きな意味を持っていた。楽曲内に詰め込まれた事実以上に何も付け加えられい以上、補足もかなり簡素なものになった。
実のところ、この曲についても、以前と同じレベルで書ききったと私は思っている。だからこそ、この曲にて書いた内容にさらに何かを付け加えて主張する気にはなかなかならず、その結果がこの文章の公開時期に影響している。前回の8,000字に比べれば、今回はなんてこともない。だが、日々の記録とはまた異なって意味で、なんとも重苦しい私の人生と、それを経て形成された私の面倒くさいロジックが、この文章には埋め込まれているのだ。一年前と同様、楽曲に注目が集まるかどうかは関係なく、私はやり切った気分だった。
それから一か月が経過し、すっかり春の空気感はなくなり、夏が到来し始めている。盆地になっている京都市内は蒸し暑く、5月ごろにはすでに半袖のシャツを着た中年が街を行き交っていた。4月に投稿してから街の空気感も変われば、かつてやり切ったと思った自分も何か思い返せるような余白を楽曲から見つけることができるのではないだろうか。そう思いながら、私は自分の作った14分間を見直してみた。
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この映像は一貫して「半身を取り戻すこと」が中心にあるのだが、「半身」とはどういうことだろうか。私たちは合成音声音楽を使用するにあたって、自ら自身の声で表現することを捨て、プログラムで作り上げられた声を使用して楽曲を完成させ、電波に乗せて世界に公開する。そんな私たちはいわば、自らの声帯を差し出すことでボーカロイドの文化圏に参入し、楽曲を公開している。自分の声を差し出すことで新たな世界へアクセスしようとする様相はまるで人魚姫のようだが、実際、私たちの多くが電波に声を流す行為によって、逆説的に電波に身体を支配されてしまうのだから、あながち間違いでもないように思えて仕方がない。声帯を捧げること、音楽においてかなり重要とも言えそうな自身の声をあえてコードに差し替えている様子は、まるで身体を電波に捧げているようだ。
そして、あまりに電波に身体を捧げた私たちは、やがて「再生回数」という数字に縛られ、次第に本来の形を大きく逸脱した形で身体を数学化してしまう。ニコニコ動画に投稿する全ての人間が固有のIDによって管理されているように、情報社会で生きるにあたって私たちは必ず身体を数学的なものへと翻訳しなければならない。そうすることによって私たちはまだ見ぬ新しいインターネットの世界へと飛び立っていたはずだったが、そうした行動の結果、私たちの多くが過度に数学的世界へと自身の意識を向けることによって、誰しもが世界を数学的価値でしか見れなくなっていく状況が、少なからず出来上がっているだろう。無論のこと、動画を投稿する全ての人間は「見てもらう」ために動画を共有している。そのことは決して無視してはいけない。だが、もはやそのことが全てになってしまった時、私たちは新しいものを作ることが果たしてできるのだろうか。
全てを数学的にとらえられてしまう世界の中で、電子化される身体の侵略から、どのように自分の新しさを作り出せるのだろうか。私の結果は「現実社会の生活」であった。どんな音楽もジャンル分けされ、データベースに分類され、そして管理されていく。そんななか、ジャンル分け出来ないものを作り上げることで、数学的侵略の及ばないような世界に至ること。それは皮肉にも、情報空間の外側に存在する。だから私は、一年前に一か月間に及ぶ自分の現実——絶対的に他者のものになることのないものとしての、自身の「血液」ともいえるもの——を、そのまま公開した。全てがジャンル分けされデータ化される世界の中で、あえてそこから逃避する新しさを作ること。未完成の生活そのものこそ、分類されえない何かを有しているのではないか。そういう実践を私は行い、そしてその思想は新たに公開された14分の映像の中にも、詰め込まれている。全てが数学化されるなか、数学化されない私の実践はどのようにしてなされたらいいのか。この映像はその理念的な思考であり、昨年に投稿した30分の映像はいわば、その実践であったといえるのかもしれない。
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身体が数値でできてしまうことからどうやって距離を保つのか。この問題は一方で「いかにデータに還元されない『名前』を保つのか」という問題と関係しているように思える。そうすることで、この映像を一か月後に見返した私の頭には、新たに「名前」を放棄することについての問題が浮上した。声帯をプログラムに委ねた私たちの多くは、自身の本名を世界に向けて公表することもなく、ひっそりと公開し続けるような日々を送ってきた。ところが、あらゆる価値が数学で管理されるようになった現在では、たちまち数学に担保された社会的地位を求めることに執着することで、隠された自身の本名を次第には世界に公表したり、あるいは名前を隠す代わりにつけた新たな名前をどんどんと表面化させている。さらには、SNSの発展に伴って、ボカロPがどんどん自らの声でしゃべる機会も多くなった。数学化された世界の中で、ボーカロイドもこれまでのようにはいかなくなったのだろう。しかし、どんどん名前を表面化させていく行為は、私たちが半身に関する原理とそもそも矛盾しているような気もする。この矛盾は、次第に世界そのものをさらに引き裂いてしまうような気さえ、私には思えてしまっている。
私たちは身体を捧げることによってボーカロイドを使用し、世界と繋がってきた。何かを捧げることによって世界と繋がるという行為は、国内ネット文化が一貫して維持している一つの特徴である。自分の名前を捨て、ボカロPへ。しかし、今ではその「ボカロPとしての名前」がまた、数学的価値へと編成されているのかもしれない。だとすれば、私たちは名前さえも捨て去って、ひたすら匿名で生きていく方法を探った方がよいのではないだろうか。そうすることで、私たちは数学化される世界から自身を捨て去るのだ。データ化できない現実の可能性を探るか。存在の消失を通してデータ化される世界から逃避するか。私がこれまで行ってきたのは主に前者だったと思う。だが、後者の方法も考えなければならないように思える。いやむしろ、後者の方こそ、在りし日に声を失うことによってつながった私たちの姿そのものにも何かしら近い要素もある気がする。
私はこれまで自分の唯一無二性のことを「血液」という言葉で用いてきた。だが、ここから逃避することも考えなければならないのかもしれない。私の唯一無二の血液を主張することから、血液の放棄へ。その方法を知る必要がある。