見出し画像

数学化する身体と、血液の証明——「思考実装#6」にあたって

この記事は自由に価格を付けられます。https://paypal.me/ukiyojingu/1000JPY

1.はじめに

この文章が読まれている今、あなたは何をしているだろう。
私は自分の部屋にこもり、画面に向かって文字を入力し続けている。
この映像と時間に、大きな意味はない。だが、音楽を流してしまうとたちまち、すべてが台無しになってしまうような恐怖に駆られてもいる。だからこの時間は、静寂のみが続いている。無理難題を私は画面の向こうの僅か数十センチの先にいるあなたに問いかけるのかもしれないが、どうかこの言葉を最後まで聞き取ってほしい。これから私は、自分がどうしてこのようなものを作ろうとしたのかを話していきたい。

2.私たちはどうして、自分自身の声を捧げているのか

作り手であり聞き手でもある私たち全員にとって、合成音声音楽とは何だろう。そもそも私たちはどうして、多くの人が自分自身の声を持っているにも関わらず、あえて合成音声音楽に声をゆだねているのだろう。こんなことを不意に思ったのは、電車の中で田園風景を見ている時だった。ライブハウスで積極的に演奏していたかつての自分にとって、作曲した人が歌を歌うことがごく普通のことだと思っていた。声は他の誰にも複製することはできない、自分自身の唯一無二性を持ったものだと思っていた。声だけでもはやその人が誰であるかを特定することも容易いだろう。現実世界に生きる私たちは誰の声を奪うこともできなければ、与えられた唯一の声を抱きしめながら生きるしかない。しかしながら、合成音声音楽はこの声を平面化してしまう。数値を変えることによって若干ながらのバリエーションを生み出すことはできても、やはりそれは統一された声として見なされてしまう。こうした世界は、自分だけに許された唯一無二の声、その肌理を放棄してしまう行為だ。にもかかわらず、私は今こうして自身の喉を切り取り、止血し、デジタルなソフトウェアを代わりに埋め込んでいる。どうしてだろうか。

3.半身を捧げることによって接続される私たち

 私は昔から、インターネットと心理学に興味を持っていた。ひどく病んでいた高校生時代、電子辞書で精神病について調べていた時に精神分析に出会い、読書が大嫌いだった自分が突然100年前のドイツ人の著作を読みだすことになった。やがて大学に進学し、大学院にも進学し、見聞を広げながらずっと同じ学問ばかり見てきた。大学院でのテーマはインターネットと無意識についてだった。インターネットは私にとって、電波によって世界が一つになるような新しい時代の希望のように見えていた。
 紛れもなくメディアの一種であるインターネットは、文字通り媒介として多くの人々を接続し、情報を行き交わせてきた。その登場時にこそ新しい空間として政治的な運動もあったものの、多くの場合はアンダーグラウンドの新しい文化として、少なくとも私たちのいる日本では受け継がれてきた。合成音声音楽ソフトたちはそんな文脈の中で登場し、やはり社会の裏側でひっそりと受容されてきた文化から生まれ落ちた存在であったはずだった。私たちは彼女たちに自身の声という唯一無二なものを捧げることによって、裏側に存在する集合体に合一することを可能にしてきた。いわば、半身を捧げることによって、私たちは繋がることができたのであった。

4.ほかの誰でもない自分自身を作るために

 そうした繋がりかたは、自分自身の声を犠牲にすると同時に、自分自身の声では再現できない理想形へと作り手の思想を表現するための方法ともなり得てきた。精神分析の思想を借りれば、私たちは常に自身の内面にしか存在せず、外部へ伝達するためには記号へ変換しなければならないような想像の領域を有している。自分自身の感情や思想は記号や表現によって誰かに伝えることができるだろうが、それを記号や表現に変換している時点で、そこには確実に何かが零れ落ちている。言葉にならない感情が私たちには数多くあったはず。私たちにはそれを救い上げることはできない。だからこそ、零れ落ちるものをできるだけ少なくする必要がある。合成音声音楽はそんな私たちにとっては救済だっただろう。自分の声では決してできない領域、そして他者にゆだねることもできない領域のかなり近いところまで、合成音声音楽は接近することを可能にした。そうして、私たちは合成音声音楽に半身を捧げることになる。
 ところが、そうして半身を捧げることによって私たちは、自身の意図するに関わらずに接続されることになる。合成音声音楽ソフトに捧げた自身の半身と、裏側の世界で共有されてきた合成音声音楽の世界はこうして出会うことになる。私たちは一方で誰かと繋がるために合成音声音楽を用いて、そして誰のためでもない自分自身を表現するために合成音声音楽を使う。誰かと溶け合うこと、そして誰でもない自分自身を表明すること。合成音声音楽は私たちに両義的な空間を突き付け、私たちはそんな曖昧な世界の中でたわむれながら、簡単に言葉を電波へと流している。繋がるための記号として、自分自身を表明するための記号として。

5.情報空間上のゾンビを前に

 ところが、私たちが繋がりを求めてから時間が流れ、合成音声音楽も大きく変わり続けた。合成音声音楽という言葉が出始めたころ、誰もインターネットが世界を繋げて一つにするという夢を本気で信じる人はいなくなっていた。目前に積み上げられる瓦礫の山と無数の虚構たち。論理的思考による人工的な管理体制の構築。私たちはデータベースの中から情報を引き出され、個人に適切な情報を提供されるようにカスタマイズされた環境の中に生きることになった。あらゆるものの価値がかつてないほどに重視されるようになったことで、私たちが裏側で暗躍するために用いてきた記号も適切な管理の下で維持されることになり、私たちが唯一無二だと思っていた半身はいつの間にか、数学的に処理されることになった。数学的存在として生きることが当然となった私たちにとって、その向こう側に向かうことは常に憧れであった。誰しもが「こういう音楽が人気である」ことを意識せざるにはいられなくなった。そして、唯一無二の半身を失った情報空間上のゾンビたちが、数学と反数学との間で共食いを始めている。
 私はずっと、この光景を傍観してきた。私は唯一無二の新しい光景を作り上げることをずっと考えている。この時代において何をしようとも、全てはカテゴライズされ、聞き手の感情により沿った音楽として合理的に提供されてしまう。この映像を見ている画面越しわずか数十センチにいるだろうあなたは、私とどう出会ったのだろうか。私は私の血液が流れ落ち、次第に肉体が腐ってしまうことを恐れている。半身を失い、情報空間上のゾンビとなってしまうことを忌避する。では、どうしたらいいだろうか。この映像と音楽は私にとって、一つの実験である。私の人生、私の思想、私の血液は決して誰のものにもなるはずはない。それは紛れもなく私だけのものであり、これこそ現実そのものなのだから。この音楽のない「現実」によって、失った私たちを取り戻すのだ。

6.私たちの半身を取り戻す

 私たちはどうして、合成音声音楽ソフトに自身の声をゆだねて電波に流しているのだろうか。そこにあるのはおそらく、私たちの半身を集合的な記号に委ねることによって生じてくる、連帯のメカニズムであるだろう。そうして、私たちは半分だけ一つになりながら、残った半分の身体で自身を歌い上げている。残された半身はさらに、新しい誰かによって別の要素を付け加えられ、再度新しいものへと変身していく。私たちの言葉はそうして、電波を通して繋がることを望みながらも、みんなが同じものとなることは拒否している。
 この映像はそれらに対するハッキングだ。私たちは半身を電波に流すことによって、固有性を維持しながらつながる場所を見つけてきた。しかしながら、私たちが委ねていた半身に、私たちはいつの間にか支配されつつあるのかもしれない。電波に支配され、誰のものでも無い血液を忘れてしまっていないだろうか。
 だとすれば、私たちの半身を取り戻す場所を作る必要があるかもしれない。膨大にあふれた音楽たち、その中で自身の好みの場所のみを選別される音楽たち。この退屈で、しかも音楽とも言い切れないこの時間には、そうした電波に支配されてしまった身体から自分の半身を取り戻したいという、私の思いが内包されている。もちろん、私も半身を電波に委ねている以上、誰も私を擁護できないかもしれない。だが、それでも流してみようと思うのだ。この退屈な時間はきっと、電子化され0と1で構成されてしまった私たちの身体に、確実に赤い血液をしみこませてくれると信じているからだ。

7.おわりに

 この文章が読まれている今、あなたは何をしているだろう。
私は自分の部屋にこもり、画面に向かって文字を入力し続けている。
数多くの楽曲が投稿される中、私の話を最後まで聞いてくれた人は、どれくらいいただろう。ここまで私の言葉を飛ばさずに聞いてくれたのであれば、感謝の言葉しかない。つまらない言葉だったかもしれないが、なんでも快適になり過ぎた今の私たちにとっては、こんなつまらなさと不愉快さこそ、本当に必要なものではないかと強く思う。私たちは不愉快なものから目を背けすぎた。なんでも快適に過ごすことに慣れてしまった。だが、私たちの目の前にある現実にいつまでも目を背けることなどできない。決して自分の声に再度回帰する必要はないが、私たちの全身を情報空間上に投げ出してしまうと、私たちは何者にもなれない。或いは、私たちが捧げた半身から、すでにデジタルな侵略が始まっていることに、私たち自身が気づいていないだけなのかもしれない。こんな時代だからこそ、私たちの現実を取り戻し、深く負った傷から流れ落ちる血液を愛せるような日々が必要だ。だからこそ、私は残った私の半身に、この言葉を捧げたい。

 私はいつも、楽曲を作ってからこの文章に何を書くかを考えている。何を書くか、どれくらい長い文を書き込むかは、その都度でかなり異なっている気もする。長いときは非常に長いし、短いときはかなり短い。実装#2を公開した際には、約8,000字くらいの文字で構成されたポエトリーリーディングを前に力尽き、そもそも何も書けなかった。2021年7月の1か月間に書いていた日記をそのまま抜粋した曲を作り、映像にして公開してからもうすぐ一年にもなるのだが、あれを作った8月の日々は自身の創作の中でもかなり大変な時期だったように思える。それくらい、8月に投稿された私の記録は、私にとって大きな意味を持っていた。楽曲内に詰め込まれた事実以上に何も付け加えられい以上、補足もかなり簡素なものになった。

 実のところ、この曲についても、以前と同じレベルで書ききったと私は思っている。だからこそ、この曲にて書いた内容にさらに何かを付け加えて主張する気にはなかなかならず、その結果がこの文章の公開時期に影響している。前回の8,000字に比べれば、今回はなんてこともない。だが、日々の記録とはまた異なって意味で、なんとも重苦しい私の人生と、それを経て形成された私の面倒くさいロジックが、この文章には埋め込まれているのだ。一年前と同様、楽曲に注目が集まるかどうかは関係なく、私はやり切った気分だった。

 それから一か月が経過し、すっかり春の空気感はなくなり、夏が到来し始めている。盆地になっている京都市内は蒸し暑く、5月ごろにはすでに半袖のシャツを着た中年が街を行き交っていた。4月に投稿してから街の空気感も変われば、かつてやり切ったと思った自分も何か思い返せるような余白を楽曲から見つけることができるのではないだろうか。そう思いながら、私は自分の作った14分間を見直してみた。

 この映像は一貫して「半身を取り戻すこと」が中心にあるのだが、「半身」とはどういうことだろうか。私たちは合成音声音楽を使用するにあたって、自ら自身の声で表現することを捨て、プログラムで作り上げられた声を使用して楽曲を完成させ、電波に乗せて世界に公開する。そんな私たちはいわば、自らの声帯を差し出すことでボーカロイドの文化圏に参入し、楽曲を公開している。自分の声を差し出すことで新たな世界へアクセスしようとする様相はまるで人魚姫のようだが、実際、私たちの多くが電波に声を流す行為によって、逆説的に電波に身体を支配されてしまうのだから、あながち間違いでもないように思えて仕方がない。声帯を捧げること、音楽においてかなり重要とも言えそうな自身の声をあえてコードに差し替えている様子は、まるで身体を電波に捧げているようだ。

 そして、あまりに電波に身体を捧げた私たちは、やがて「再生回数」という数字に縛られ、次第に本来の形を大きく逸脱した形で身体を数学化してしまう。ニコニコ動画に投稿する全ての人間が固有のIDによって管理されているように、情報社会で生きるにあたって私たちは必ず身体を数学的なものへと翻訳しなければならない。そうすることによって私たちはまだ見ぬ新しいインターネットの世界へと飛び立っていたはずだったが、そうした行動の結果、私たちの多くが過度に数学的世界へと自身の意識を向けることによって、誰しもが世界を数学的価値でしか見れなくなっていく状況が、少なからず出来上がっているだろう。無論のこと、動画を投稿する全ての人間は「見てもらう」ために動画を共有している。そのことは決して無視してはいけない。だが、もはやそのことが全てになってしまった時、私たちは新しいものを作ることが果たしてできるのだろうか。

 全てを数学的にとらえられてしまう世界の中で、電子化される身体の侵略から、どのように自分の新しさを作り出せるのだろうか。私の結果は「現実社会の生活」であった。どんな音楽もジャンル分けされ、データベースに分類され、そして管理されていく。そんななか、ジャンル分け出来ないものを作り上げることで、数学的侵略の及ばないような世界に至ること。それは皮肉にも、情報空間の外側に存在する。だから私は、一年前に一か月間に及ぶ自分の現実——絶対的に他者のものになることのないものとしての、自身の「血液」ともいえるもの——を、そのまま公開した。全てがジャンル分けされデータ化される世界の中で、あえてそこから逃避する新しさを作ること。未完成の生活そのものこそ、分類されえない何かを有しているのではないか。そういう実践を私は行い、そしてその思想は新たに公開された14分の映像の中にも、詰め込まれている。全てが数学化されるなか、数学化されない私の実践はどのようにしてなされたらいいのか。この映像はその理念的な思考であり、昨年に投稿した30分の映像はいわば、その実践であったといえるのかもしれない。

 身体が数値でできてしまうことからどうやって距離を保つのか。この問題は一方で「いかにデータに還元されない『名前』を保つのか」という問題と関係しているように思える。そうすることで、この映像を一か月後に見返した私の頭には、新たに「名前」を放棄することについての問題が浮上した。声帯をプログラムに委ねた私たちの多くは、自身の本名を世界に向けて公表することもなく、ひっそりと公開し続けるような日々を送ってきた。ところが、あらゆる価値が数学で管理されるようになった現在では、たちまち数学に担保された社会的地位を求めることに執着することで、隠された自身の本名を次第には世界に公表したり、あるいは名前を隠す代わりにつけた新たな名前をどんどんと表面化させている。さらには、SNSの発展に伴って、ボカロPがどんどん自らの声でしゃべる機会も多くなった。数学化された世界の中で、ボーカロイドもこれまでのようにはいかなくなったのだろう。しかし、どんどん名前を表面化させていく行為は、私たちが半身に関する原理とそもそも矛盾しているような気もする。この矛盾は、次第に世界そのものをさらに引き裂いてしまうような気さえ、私には思えてしまっている。

 私たちは身体を捧げることによってボーカロイドを使用し、世界と繋がってきた。何かを捧げることによって世界と繋がるという行為は、国内ネット文化が一貫して維持している一つの特徴である。自分の名前を捨て、ボカロPへ。しかし、今ではその「ボカロPとしての名前」がまた、数学的価値へと編成されているのかもしれない。だとすれば、私たちは名前さえも捨て去って、ひたすら匿名で生きていく方法を探った方がよいのではないだろうか。そうすることで、私たちは数学化される世界から自身を捨て去るのだ。データ化できない現実の可能性を探るか。存在の消失を通してデータ化される世界から逃避するか。私がこれまで行ってきたのは主に前者だったと思う。だが、後者の方法も考えなければならないように思える。いやむしろ、後者の方こそ、在りし日に声を失うことによってつながった私たちの姿そのものにも何かしら近い要素もある気がする。

 私はこれまで自分の唯一無二性のことを「血液」という言葉で用いてきた。だが、ここから逃避することも考えなければならないのかもしれない。私の唯一無二の血液を主張することから、血液の放棄へ。その方法を知る必要がある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?