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浮世絵の絵の具・おわりにー浮世絵の紙ー

今夏、江戸時代の浮世絵に使用されたと考えられる絵の具の中で、主だったものを簡単に紹介する動画を作って貰いましたが、その最後に紙を紹介します。

浮世絵の再現にあたり、紙は本当に重要なものです。
オリジナルや様々な復刻作品における観察・比較からは、浮世絵の再現としてのリアルさは、紙の再現度で決まる部分がとても大きいと考えられます。

伝統的な木版画の世界・既存の復刻の世界における考え方においても、世間一般的な考え方においても、浮世絵の復刻の完成度とは彫りや摺りの技術によって決まるように捉えられがちですが、それはあくまで装飾品や美術品ないし整然・整合性の点で「綺麗」かどうかを基準にした場合の話であり、「再現」としての完成度を基準にした場合の話とは少し別だと考えられます。

商業的に表向き謳われることは置き、実体的には伝統木版画の世界において、文化財保存修復的・復元的な観点からの紙(及び絵の具)への意識は一般に低いものと見られます。

紙に関して一般に摺師にとって意識の焦点となるのは、「どんな紙であるか」よりも「どんな紙であれ綺麗に摺り上げる」ところにあり、版元にとっては、和紙としての「ブランド力・高級感・原価」などであり、基本的には江戸時代の浮世絵の紙に、どこまで即しているかなどではないと見られます。

版元が摺師に復刻版浮世絵の仕事を出す際、一般には版元が用意した紙が摺師へと支給されますが、摺師自身で用意する場合もあります。
どちらにしてもその多くには「越前生漉奉書」が、その他に越前産の「半草奉書(半楮半パルプ)」などが使われます。

・越前奉書

柳橋眞「和紙」(1981年)によると「奉書の出現は、興福寺の大乗院尋憲の「尋憲記」の元亀四年(1573)に、越前で奉書かみを購入したとあるのが初見であるとされる。天皇など目上の人の命令を代わって下の者の名で出す公文書である「奉書」に使う上等の用紙の意味から、次第に独立して紙の銘柄となった」と。」あり、「江戸時代にどの産地でも奉書を漉くようになるが、越前の奉書は本場物として、高く評価された。」とあります。しかしながら「その奉書も、明治末期には越前では二十戸くらいになった。それも木材パルプを入れるようになり、純楮で生漉奉書を漉くものは五戸ほどであった。」とあり、そしてそうした低迷した状態の中で、それまでのようにいつまでも御祝儀や免状用紙・寺社用紙を作っていてもだめだと、(8代目)岩野市兵衛さんが開拓したのが浮世絵などの木版画用紙である、とあります。
江戸時代の浮世絵において上物には越前奉書が使われていますが、上記記述からはその使用は少なくとも明治末にはほぼ終息を迎えており、それ以降(8代目)岩野市兵衛さんを筆頭にして、現代みられるような復刻版の浮世絵における、「越前生漉奉書」の一般使用が普及していったと考えられます。一般に現代の越前生漉奉書は那須楮(戦前は加賀楮が使われたそうです)のソーダ灰使用で、塡料には白土が使われますが、近年になり塡料は白土から別のものへと変わったようです。

・政
伊予地域における奉書紙作りの歴史も古く、「毛吹草」(1645)には四国の紙の特産品として伊予国の奉書がみられます。
石井研堂「錦絵の彫と摺」(1929)には「政は奉書の一種で、錦絵の用紙の九分まではこれである、古来、伊予国新居郡を其産地とし、本西政、三国一、天竜堂等の銘有るものを最良とし、其他、国安政、小松政など、其製造や産地を異にするに従って、其名を異にし、品質同じからず」とあります。新居郡は江戸時代に西条藩の藩庁が置かれていた所であり、日野暖太郎和輝編「西条誌」(1842)には「西条の奉書紙は大阪にひさぎ、江戸に運びて錦絵を摺る故に価貴く御国益少からず云」とあります。
なお「国安」、「小松」とは現在は西条市に含まれる、かつての国安村や小松町などに由来すると思われます。

現代も政や伊予奉書は漉かれており、伝統木版画の世界では千社札や千代紙などに使用されていますが、パルプの使用が多く、製造過程では苛性ソーダやカルキといった薬品が使用され、江戸時代のそれとは別のものとみられます。

自然で当たり前のことですが、江戸時代が終焉し150年以上も経つと、木版印刷及び浮世絵版画制作における、素材も道具も技術も、そこには変化が見られます。

自分の復刻に対する考え方は、復刻の現場の中でその実体を見たり、再現の概念や意義を考察したり、オリジナル作品や様々な復刻作品を観察・比較したり、そういった特殊なプロセスの中で至ったものなので、基本的には理解されがたいものだと思いますが、今後も復元的な観点から江戸時代の浮世絵の再現に取り組んでいけたらと思います。

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