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浮世絵の絵の具ー鉛白・胡粉・雲母ー

鉛白も胡粉も国内では古くから存在していましたが、その名称や原料、製法には変遷があります。近世における鉛白の製造は慶長~元和年間(1596~1624)から、泉州堺を発祥地とするといわれており、この製法によるものは鉛板に酢酸蒸気をあてることによる塩基性炭酸鉛です。

しかし奈良時代に「唐胡粉」と呼ばれていたものは塩基性炭酸鉛であり、「倭胡粉」と呼ばれていたものは塩化物系鉛化合物であることが解明されており、この時代において「胡粉」とは鉛系白色顔料の総称にあたるといわれています。

日本絵画における白色顔料の使用において、古代から室町時代までは鉛系白色顔料が中心として使用され、室町時代から江戸時代初期には貝殻を主な原料とする白色顔料へと切り替わり、以後はそれが中心となるといわれています。

1690年成立の土佐光起「本朝画法大伝」には「胡粉は三種あり、白亜は大ごふん是土也、胡粉は鉛を焚て作る、蛤粉は蛤を焚て作る」とあることから、この時代には胡粉は白色顔料の総称及び鉛白を指していたとみられます。
いつの頃から胡粉が後世のように、貝殻由来の白色顔料を指して使われるようになったのかは未だ探究を得ませんが、前述した日本絵画における貝殻由来の白色顔料の変遷・普及を考えると、「鉛白」を指して胡粉の名称が使われた期間としては、この頃は末期にあたるのかもしれません。

1732年の三宅, 也来(他)「万金産業袋」には胡粉は「牡蠣がらなり」とあります。

1878年のTakamatsu Toyokichi 
「On Japanese pigments」には鉛白は塩基性炭酸鉛であり、牡蠣殻から作られる胡粉に比べずっと高価なものであると書かれています。

前述の貝殻胡粉の変遷・普及も考えると、江戸時代の浮世絵の時代において、鉛白は貝殻胡粉よりも高価なものであったと考えられるので、江戸時代の浮世絵における鉛白と胡粉の使い分けは絵のランクと関係しているのかもしれないと推察されます。また現在の摺師の間では「胡粉」としては、チタニウムホワイトの使用が一般に見受けられますが、この理由として、価格の低さに加えて、粒子の細かさ故に木版画を摺るのに適しているなどが挙げられます。江戸時代から現代まで摺師が使う絵の具の、選択と変遷を俯瞰的に見たとき、それらは基本的には時代ごとにおける「価格」や、「扱いやすさなどの性能」などと関連していると思われます。よって鉛白が江戸時代において高価なものであったとすると、それが使われた理由には、鉛白の方が胡粉よりも木版画を摺る上で扱いやすかった、ということなども考えられます。
これらのことについては今後立証化・分明化出来たらと思っています。

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出典:http://webarchives.tnm.jp/

(鉛白の使用例:"おしろい"として鉛白が使われています。)

国内で鉛系白色顔料の化粧用つまりおしろいとしての使用の歴史は古く、「日本書紀」(720年編纂)の巻十四、雄略天皇七年(450年頃)八月の記述からは、この頃には鉛から作られた白色顔料が渡来し、化粧品のおしろいとしても使用されていたといわれています。
そして化粧品としては1935年以降に使用が禁止となります。

参考資料:

三宅, 也来(他)「万金産業袋」(1732年)

Takamatsu Toyokichi 「On Japanese pigments」(1878年)

鶴田榮一「顔料の歴史」(2002)

(有)金開堂「胡粉の白」(2008)

目黒区美術館「色の博物誌」(2016)

・鉛白前回記事


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