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「一生一緒にいてくれや」って言いたくなった

 気がつけばパートナーと暮らし始めてもうすぐ一年が経つ。生まれてこの方結婚願望もなく、というか早々に結婚というものを諦めていた人生だったが、何の因果かこういう椿事もあるもんだ。

 三十路を過ぎた頃、高校の友達の結婚式に出席した。幸せそうにしている友人の顔を見ていたら自分まで嬉しくなてしまって。もし私が結婚したら私の友達もこんな嬉しい気持ちになってくれるのかな、と思ったら結婚したくなった。その時友人が記念写真撮るときに言った「中学と高校の友達のコラボレーションだな!」という台詞は素朴だけどエモいしメモい台詞だと思っている。
 それから推しに勧められるままに『逃げるは恥だが役に立つ』を年始に一気見してこんな”末永く”付き合えて”ハグの日”とかある結婚生活してみたいと思ったものだ。
 実際パートナーと暮らしてみると、他人と家族になるということに戸惑うことも多い。異なる常識の中で生活してきているからお互いの「普通」が違うのよね。その辺りは介護やってたからある程度生活ルールの差異は覚悟できていたはずが、結構面食らった。
 慣れない家事もやっていると、なんだか実物を使ったままごとのようでもあり。料理はやってみればやってみるほど科学だなと感心する。まんま平匡じゃん。
 十代の頃、半笑いで聞いていた三木道三もこの歳になって「超わかる~」って感じで聞いてしまっている。
 夫婦という関係性を持つこと自体初めてで、おそらくそんなに取っ替え引っ替えするものでもないから、父のようで息子のようで兄のようで弟のような、母のようで娘のようで姉のようで妹のような、家族の中の役割を瞬間瞬間で切り替えながら過ごしている気がする。
 久宝留理子『「男」』の歌詞ではないが、「ママじゃない」と言うわりには子供扱いしたがる傾向もある気がする。恋人に異性親を求めると評判が悪いのは重々承知した上で、他人と家族になるなんて経験めったに無いから、親だったり子だったり兄弟姉妹だったりの関係の似姿になってしまうのが夫婦なのかな、と。
 や、フウフだっていろんな形があるだろうからどこまで一般化できるかはわからないけれどね。大人になると子供扱いされる機会は減るから、私は子供扱いされると無邪気に喜ぶことにしています。いちいち怒るほうが幼稚だと思うし、その方が平和で楽しい。

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