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おそらくもう私に友達は必要ない理由

 コミュニケーションは相手なしで成立しないので、コミュニケーション能力の有無という形で個人の能力として測るのは無益だと考える。
どんなにコミュ力があっても相手にその気がなかったらコミュニケーションなんかできないし。そも本邦は天野岩戸に引きこもった神様の末裔なんでしょ。
 ジェーン・スーさんが「女友達は唯一原本割れを起こさない資産」と言っていて、実際未中年になってくると友達の維持費も相応なものになる。
この場合の維持費は必ずしもお金ではなく心理的時間的なリソースも含まれる。
未読スルーという可視化された音信不通に対し、どれくらい労力を割くか。
既読つくまで待つにせよ働きかけるにせよ、相応に心を砕くことになる。
取引や投資じゃあるまいしと思うけれど、減価償却済んでるにせよ済んでないにせよ、ここらで損切りしてもいいのかなとか考えてしまう。
呼んでも読みにこないならもう呼ばなくていいのかなあ。
年に一回飲み会するだけの関係でもいいんだろうけど、私は酒もタバコもギャンブルもやらないから、お酒を出す店でパチスロやゲームの話をされても話題についていけないし。

 こんなことなら原本割れを起こさないという女友達を作っておくべきだったろうか。
性欲がなければ、というより男の体に生まれなければ、もっと女の子と仲良くなれたかなあ。そも小中といじめられていて自尊心がひん曲がったからそんな単純な話ではないだろう。
 今思えばいじめられるだけの原因は私にあったと思うが、それはいじめをしていい理由にはならない。
原因と責任の所在は必ずしも一致しないということを、あの頃の女子たちはわかっていたから、男子と違って私をいじめなかったのだろう。

 とは言え私は女でもないから、女の集団とやっていくのも難しい。つか団体行動ができない。
 アプローチが下手なのは師匠からも指摘されてきたけど、下手なまま押し通るやり方を覚えてしまった観がある。
処世術ってストリートのサバイバル技術だよね。
ストリートワイズになり損なった街角技巧(ストリートテクニック)だな。

 人を愛せば愛すほど、相手と釣り合う人間になりたくなるから、そうして自分を高めていくしかない。
相手が私を友達と思ってなくても、私は相手を想い続けるしかない。謝らせてももらえないという事実より、謝らせてももらえないほど傷つけてしまったという加害者意識を抱え切れない。
原因究明。再発防止。責任追及。少なくとも私がやるべきことは誰が頭を下げるかを有難がることじゃない。


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