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どうして愚痴を言いたくなるのか

「不平、不満、愚痴、おはがき大募集」と日曜の朝から呼びかけられていた。
『はやく起きた朝は…』という番組は『おそく起きた朝は…』だった頃から特に思い入れを持たず見ていた。
子どもの頃は不平も不満も愚痴もTHE GINZAのファッションポーチも同じくらいよくわかっていなかったけれど、いつしかわからない呪文ではなくなっていた。

  昔からあまり愚痴を言う方ではない。そして他人の愚痴を聞くのは苦ではない。よく聞き役として身の回りの人から重宝がられた。相槌を入れながら愚痴を聞いていると喜ばれ、聞き上手なんて評価をもらえるようになるから不思議なものだ。

 三十路を過ぎてやっと、言ったほうが良い愚痴もあるということに気づきはじめた。誰かに言ってもしょうがないことだと言わないでいることが多かったからだ。今思えば私の父は家で仕事の愚痴を言う人ではなかった。誇張抜きで一度も聞いたことがない。
 でも、聞いてもらうだけで心が軽くなるということは実際にあったのだね。頭の中で言語化して理解しているつもりでも、改めて他者に説明するために言葉にして口に出すと解像度が違う。
 人に説明すると都合が悪いことも言わなければならないし、嘘をついたら嘘をついていると自覚させられてしまう。客体化とは自分の中の矛盾と向き合うことなんだ。手にとって、まじまじと観察するように把握する。そんなことしても状況は変わらないが、胸据わって立ち向かえるようになる場合があるのだ。

 無論ただ闇雲に愚痴を言えばいいというものではないのだろう。問題の本質を看取し、何に困っているのかを整理できなければ、苦しさが反響するだけだ。
  他方で。聞き上手と讃えられる私でも聞くに耐えない愚痴というのはあって。利害関係やポリシーによってジャッジしたくなる愚痴を聞かされていると、あんまりいいリアクションはできなくなる。傾聴は技術だ。


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