引きこもりは被災地へ行った

 埃まみれのこころが落ちてきた

 ただ惰性で生きている。大学受験で失敗してから毎日寝て起きてネットを見るだけの日々が6年続いた。それでもそれなりに楽しいことはあるし、将来のことはどうでもいい。どうせいつかは野垂れ死ぬと思えば不安だって感じない。
 ぼくはいつも通り、昼間から布団の中で眠っていた。地面が揺れていることには気づいていた。けれどすぐに治まるだろうと思った。長いな。大きいな。首都直下型かな。と考えを巡らせはしたが、とりたてて動くことはしない。引きこもり一人があわてて動いたって何もできないし変わらない。何かが落ちる音がしたが気に留めず睡魔に身を委ねた。
 16時頃目が覚めてTwitterを見るとタイムラインが騒がしい。さっきの地震の話題らしい。停電や倒壊の情報に混ざって、テレビ画面、太平洋側が縁取られて強調された日本地図の画像が目に入った──津波。ただ事ではないことを理解して、ぼくは布団から起き上がった。そして2歩踏み出したところで何かを踏んだ。よく見ると文庫本だ。埃にまみれたそれを手で拭うと「夏目漱石『こゝろ』」とあった。高校の現代文の授業で使ったものだ。休み時間に級友とからかい半分、話題にしていた台詞が頭を過ぎった。「向上心がないやつは馬鹿だ」。
 それから丸々一週間、テレビは震災のニュースだけを放送していた。CMも自粛されACの当たり障りのないものが流され続けていた。NHKの岡本太郎の伝記ドラマの放送を楽しみにしていたがそんなことを言っている状況ではない。ネット上もギスギスし、外での飲食すら自粛すべきかどうかと意見が飛び交っていた。時間が経つごとに被災地の情報が手に入り、時間も物資もお金も場所も人も足りていない状況がわかってきた。ぼくは健康で五体満足な体を持っている。けれど働いているわけでもない。まともな収入もない引きこもりにできることとして、とりあえずTポイントカードのポイントを全額寄付した。
 一ヶ月ほど経った。地震。津波。原発事故。復興への道程は遠い。世間とつながりを持たない引きこもりでも何かしなきゃ、何かできることはないかという気持ちがふくらんでいった。ネットで調べるだけなら親指を動かすだけだから、ぼくはボランティアの募集情報を調べるようになっていた。
 一ヶ月半ほど経って、ぼくは頭を一分刈りにした。現地で毎日髪を洗える保証はないから、短くしておけば水をかぶってタオルで拭くだけでもすっきりする。ザックに寝袋やレインコートなどの装備をつめるとき、高校で登山部だったことを思い出して懐かしくなった。事前ガイダンスでは大きな余震も続いているから二次被災する可能性があることや、破傷風の危険などを教わり、ボランティア保険に加入した。怖くないわけじゃなかったけど、それ以上に何かできることを見つけてやらなきゃという気持ちが強かった。
 ぼくが参加したのは都内在住・在学・在勤の人を対象にしたツアー型ボランティアだ。参加者の職業も色々で会計士、プログラマー、看護師、金融関係、学芸員、自営業、主フ、弁護士、OL、大学生、定年後の方、震災の煽りで内定取り消された若者など。老若男女入り乱れる初対面だらけの集団で、ぼくみたいなニートがやっていけるのか。緊張をほぐすためにiPodで榊いずみの『東京発』を聞く。上京して自分のことを知ってる人がいない街で変わろうとする人の歌を、東京生まれのぼくが東京を発って、自分のことを知る人がいない街に行くときに聞くことは意味がある気がした。ぼくらを乗せたバスがサービスエリアに着いてトイレによると、小便器にズラリと自衛隊員が横並びになっていた。ぼくはこれから足を踏み入れる場所の物々しさを予感して気後れした。

「がんばらないで」と言われて

 現地の宿舎に着いたぼくたちの足はレンタカーだった。小さなスイフトに大人が5人。荷物と資材も積み込むことを考えるとすし詰めだ。ドライバーの膝の上にまでスコップを乗せているチームも見かけた。スイフトでボランティアセンターまで向かう道すがら、自衛隊や米軍の車両とすれ違う。宿舎のある街からボランティア活動をする現場までは距離があるので、被害の状況もまったく異なっていた。ニュースでは見たことがあったけれど、陸地に船が丸ごと乗り上げている状況や、ガラスが全面なくなっているコンビニエンスストア。ガードレールの上に乗り上げた自動車など、一見して理解が追いつかない光景が広がっている。何よりどこを見ても瓦礫が積み上げられて山のようになっていた。
 ボランティアセンターでニーズ表を受け取り、依頼人のいる現場へ向かう。行動の拠点として、とある小学校の校庭に移動すると校庭が脛の半分まで浸かるくらい水浸しになっている。子供の頃社会科で習った地盤沈下というものを初めて理解した。校庭の端の小高く盛り上がっているところには桜が植えてあり、花が満開だった。こんなことになっていなければ、入学した一年生たちもこの校庭で走り回っていたはずだが、今は長靴を履いても走り回れる状態ではない。
 ぼくたちの最初の現場は個人宅の掃除だった。漂着ゴミを拾うだけと言えば簡単そうだが、倒壊家屋の建材やガラスなども多分に含まれているので注意と体力が必要だ。現地で長くボランティア活動をしている青年グループと協力しながら汗だくになって作業した。作業が終わってゴム手袋を外し、指の方を持って逆さにすると汗がさらさらと流れ出た。
 昼の休憩はさきほどの小学校でとった。桜を眺めながら持参したパンなどを食べる。宿舎の周辺は飲食店もコンビニも営業していたので買い物に行くことは歓迎されていた。食事が済むと困ったことにお腹が痛くなった。午前中の作業でかいた汗が急速に冷えたらしい。リーダーに伝え、ぼくはトイレに向かった。もちろんボランティア用のトイレなどあるわけがない。避難所の仮設トイレを借りることになる。順番を待ってトイレに入る際、ぼくはいったい何をしに来たのだろうと申し訳ない気持ちになった。何かできることはないか、役に立ちたいと思ってここまで来たはずなのに。特に信仰もないがこの時ばかりは祈る。どうか腹痛よ、治まってください。
 午後はニーズ表を配り歩いた。ボランティアを呼んでもらうために、ボランティアの呼び方がわからない方の潜在的なニーズを聞いて回ることもぼくたちの役目だった。ボランティアのビブスをつけて歩いているので、現地の方から口々に感謝と労いの言葉をかけてもらえた。ありがたかったが、同時にまだ何もできていない不甲斐なさを感じた。
 その後もぼくは指示を待ってはオタオタするだけ。若い男性なのに重い物も持てない。焦ってばかりで何ができたということもないまま作業に参加していた。そんな折、ある個人宅の片づけに行ったとき、ビールケースを巨大化させたような箱が庭に漂着していた。これを運び出すため、青年グループの一人に「一緒にやれる?」と声をかけられたので、ぼくは咄嗟に「がんばります」と答えた。すると彼は「がんばらないで」と言ってぼくをメンバーから外した。疑問の眼差しを向けるぼくに対して彼は「ボランティアはできることをすればいい。無理してがんばって怪我したら大変だから」と答えた。当たり前のことかもしれないけれど、危なくてできない作業は断ることも大切だと学んだ瞬間だった。
 人間できることしかできない。極限の状況に飛び込んだところで普段からできていないことが突然できるようになりはしない。だからぼくは当たり前のことを丁寧にやることにした。その一つが挨拶だ。ボランティア仲間と言っても初対面なのはみんな同じなのだから、誰より交流を図れば、一番このメンバーに詳しい人になれる。宿舎で顔を合わせる仲間に元気よく挨拶をして、できるだけ顔を覚えてもらうことにした。幸い頭を丸めていたから「お坊さんなんですか」などと声をかけられることも多く、やり取りをするうちに「引きこもりくん」として親しまれるようになった。いろんな人と言葉を交わすうち、他のすべてのチームに顔見知りができて、得意技や専門知識を持っている人の情報を得ることができた。気づけばぼくは会話の端々から得た知識や情報を、それを必要としている仲間に伝える伝令役になっていた。ボランティアに志願するだけあって、みんな人当たりがよく、面倒なことも率先して取り組む働き者が多かったから話下手なぼくでもなんとかなった。
 そうして培った人脈はボランティアの現場でも役に立った。大人数での作業になればなるほどリーダーの指示を聞いていないメンバーは必ず出てくる。その都度リーダーがくり返し一人ひとりに説明できれば理想だが、刻々と変化する状況に対応しなければならない中で、同じ話を何度もさせるのは非効率だ。ぼくはリーダーの出した指示を何度も復唱し、噛み砕いて説明することでチーム全体の意思統一に取り組むようになった。特に津波で地上に上がってきた汚泥をかき出す作業は、手順通りにやらないと効果が薄い。目立つゴミを拾う作業をして、枯れ草が絡まって自然にできたパルプを撤去し、やっと表出した汚泥を剣スコップで崩し、角スコップで土嚢袋につめる。今どの段階の作業をしているのか、全員が把握していないと効率的に作業ができないので、自分で作業をしながら「今はこれをやりましょう」と声をかけて回った。

 溜飲を下げてたまるかよ

 現場から現場へスイフトで移動する道すがら、被害の大きかった地区を通った。住宅街だったことはわかる。気づいたのは、異様なほど音がしなかった。普段生活をしていても、とりたてて生き物の気配を感じたと思うことはないが、この場所には生き物の気配がなさ過ぎた。2階建ての一軒家の1階部分がえぐり取られている。遠くには赤い旗と青い旗がいくつか見える。あの旗の下には未回収のご遺体があるそうだ。依頼人の中には配偶者を津波で失った方もいれば、ご本人も首まで浸かって九死に一生を得た方。津波から逃げる途中子供を助けて車に乗せたが、その子の両親を助けられず目の前で波に飲まれてしまったという方もいた。ある日突然「被災者」と呼ばれるようになってしまった方たちのことを思うと、なんと言葉で形容しても浅薄になってしまう気がした。実際に彼らを目の前にして、名前や顔を知った上でも、かけられる言葉なんて思いつかなかった。
 昼の休憩で立ち寄った公園にはつくしが生えていて、近くの保育園の子供が散歩をしていた。この子達が屈託なく裸足で走り回れるように、汚泥やガラス片を一つ残らず片づけてしまいたいと思った。
 ぼくの最後の現場となったお宅は、広い敷地に花壇があって、いろんな花を植えていたらしいお宅だった。依頼人の老婦人は「これは彼岸花、これは梔子……」と、どこに何の花を植えていたか丁寧に教えてくれた。海水をかぶってダメになっている花もあれば、それでも芽吹いて生きている花もあった。「もうダメね……」なんて漏らす婦人に対して「まだ咲きますよ」とか「がんばってください」とか、なんの責任も持てないけど言ってしまっている自分がいた。正解の応答ではない気がした。なんと答えたところで正解にはならない気がする。ただ今目の前で困っている人がいて、なんとか励ましたいと思っている自分がいることだけがすべてだった。
 最後の作業が終わって現場から宿舎へ帰る道程。道路沿いには山のように積み上げられた瓦礫と土嚢。ぼくたちが東北に来たときと少しも変わらない景色。冷たくかわいた風を受けて、決して「俺たちよく働いたな~」なんて気持ちにはなれなかった。涙を流す権利はぼくらにないと思いながらも、非力なことがくやしくて、やさしく受け入れてくれた依頼人たちの今後が気になって、ぼくたちは泣いた。人一人に限界があることはわかっているけれど、これで溜飲を下げてたまるかという気持ちだけは確かに残った。
 翌日は宿舎からの撤収作業。結局のところ初対面の老若男女との一週間共同生活は引きこもりには堪えた。社交的に振る舞う限界が来て離人症状が出始めたのでサボりにならない程度に周囲から距離を置いて過ごした。東京へ帰るバスの中、滞在中はいつも明るく、それでいて真面目だったお兄さんも目に涙を浮かべ落ち込んだ様子だった。現地から離れること、このメンバーと別れること、何がつらいのかはわからないが、かけられる言葉がない無力感を改めて感じた。
山並みや田畑、鯉のぼりの風景だった窓の外も、埼玉に入った辺りから高層マンションなどの建築物が増える。被災地での日常はぼくたちにとって非日常なのか。地続きなようで日常という言葉の示すものが入れ替わっていく感覚がした。ぼくは、ぼくの日常に帰っていくことに恐怖を覚えた。ぼくは東北でのことを美化した思い出にして、やがて忘れてしまうかもしれない。縁も所縁もない東北だった。けれど今となっては縁ができてしまった。依頼人や避難所にいた方々がどんな表情だったか、どんな声で話し、どんな環境でこれからも生活しなきゃならないのかを知ってしまった。

 それでも生活は続く

 あれから十年経った。終わりなき日常が終わったという意味では、確かにぼくの日常も終わった。世間知らずの引きこもりだったぼくが、今では老健で介護職として働いている。震災の復興に関しては解決されていない問題も未だにあるけど、そもそも問題のない時代なんてない。
 息をするだけでもつらいような思いをしている人は時代や場所を問わずいくらでもいて、そういう人たちの痛みや苦悩に寄り添う仕事をしている人たちもたくさんいた。そういえば子供の頃、無邪気に「医者になりたい」と言っていた時期があった。医学部に行ける頭はなかったけど、困っている人の力になりたいという気持ちははじめからあったんだ。世界中探せばぼくより頭のいい人はたくさんいるし、力の強い人もやさしい人もお金持ちだってたくさんいる。それでもその時その場所に居合わせたのはぼくなのだから。どんなに未熟者だったとしてもその場にいたぼくが尽くした最善に胸を張りたい。この手は誰かのために精一杯のばせる手であることを望んでいる。
介護士になったと言っても、できることをやっているだけなのは変わっていない。介助技術はまだまだだけどナースや理学療法士や言語聴覚士、施設相談員やケアマネージャーや栄養部に事務に営繕まで。同じ施設で働く仲間とコミュニケーションをとって情報共有や意思統一を行っている。利用者の家族にメールで利用者の様子を知らせることにもやり甲斐を感じている。人と人をつなぐ伝令役なのは相変わらずだ。
 東京に帰ってきてから何度か東北には足を運んだ。風は冷たいけど人はあたたかいというのがぼくの所見だ。東北に観光に行くためにも働かなきゃならないというのはぼくが、働く気になった理由の一つだ。東北は引きこもりが旅行に行きたくなる街だった。
 終わりなき日常が終わっても、人生は続く。生きている限り日常は更新されていく。

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