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今週のこと

定期的にnoteを更新しようと思っていたのだが、休みには日がな一日海外ドラマやYouTubeでEIKO!GO!!(生きる糧)を見ることが多く、あまり文章を書くということができていなかった。
私はルーティン生活に偏りがちで、単調で同じリズムで日常をすごすことが心地よいのだが、それと同時に“なにか”をしなければ、というある種強迫観念的な焦りを感じることがよくある。
なにもせずにただ歳をくって老いていくのはもったいない、私が私である人生は一度しかないし、でもなにをしようか、なにができるのか……ときどき自問自答して同じ答えにいきつく。
それは文章を書くことだ。
私は自分が文章を書けることを誇りに思っているし自信があるし、この能力をもっと伸ばしていけると思っている。
だが、ただ書くだけではなくインプットも重要である。
大学生のとき、村上龍にハマりすぎて文体が寄ってしまったことがあった。彼の作品では、登場人物の主観が描かれているあいだはひと息で読みたくなる、というか読んでしまうような書き方がされていて、2、3ページにわたる文章が句点なしにいっぱいに書かれているというのがよくある。
それを読んでいる私は作品の世界に没入して、俯瞰で物語を見ているような感覚になる。
そういう人をひきつける文章を書いてみたいと思ったのだ。
しかし、村上龍しか読んでいないとどうしてもそっくりそのまま真似てしまって私という個性が出てこない。
けっして真似が悪いとは思っていないし、でも真似しすぎるのもよくないと思っている。著作権とかあるしね。
創作においてまるっきりゼロから作ることができる人なんているのだろうか。
どんなに有名で評価されているアーティストでも、なにかに影響を受けていたりおマージュしていたり、きっと“ゼロから作ったオリジナル”なんてはるか古代にしかないのでは、なんて考えたりもする。
例を挙げるとすれば、最近のヒロアカでは作者が宮沢賢治の『春と修羅』の序文を引用していたり、『春と修羅』つながりで米津玄師も宮沢賢治から影響を受けている。
しかも米津玄師への影響はあの平沢進からも与えられているらしく、彼の『飛燕』を聞くと『MOTHER』とか『庭師KING』あたりを感じることができる。
だからインプットからオリジナルを作る、最初は真似てみるというのはまちがっていないと思うし、模索しなければいけないと思う。
というようなことを考えながら、ただ書くにしてもテーマやきっかけがなければなにもできないわけで、インプットとアウトプットを自分のなかでどうにか義務化できないものかと悩んでいた。ちょっとだけ。EIKO!GO!!見たら笑いすぎて忘れるんだよな(これぞまさに見る抗うつ剤といわれる所以である)。

そしてたどりついたのが、一週間の記録をつけるということだ。
最近は映画を観る頻度も増えたのでそこから考えたこととか、なにをしていたとか、簡単に週間日記を書くつもりでやっていこうと思う。
ということはインプットが必要なわけで、映画を見たり大量の積読を消費するモチベーションにもつながる。ちょっとワクワクしてきたかも。

余談
平沢進の『デューン』という曲はデヴィッド・リンチの『DUNE』から影響を受けたらしい。新しい『DUNE』も好きだけど、デヴィッド・リンチのあの気持ち悪くちょっとおぞましさを感じる世界観も大好きだ。平沢師匠の曲からはそれが感じられた。ちなみにTOTOの劇伴もめちゃいい。

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