わたしの夢は走っています

 馬をすきになったのはいつごろだろう。「ダービースタリオン」であり、「ウイニングポスト」というのは容易いが、そもそもぼくはものごころついたころから、ばあや(噓だとおもうでしょう?生れがいいんです)に連れられて毎週のように宝ヶ池乗馬クラブ(のような気がするけど確信はない。そのあたりということでここはひとつ)までラッキーを見に行った。

 ”ラッキー”は祖父(馬場馬術で国体に出たことがある、というのはやや盛っているのではないか説があるものの、古稀でもふつうに馬に乗ってたから、法華津さんほどではないにせよ、飼葉と寝藁の臭いに埋もれて寝たりした生活の柄が夏向きなのだろう)の持ち馬で、アングロアラブの、ものごころとしては鹿毛だった気がするけど、まだ世界が色彩にまぶれつくしていないころだから、黒鹿毛だったかもしれない。サラブレッドとはちがう安定感を30年以上経ったいまもおぼえている。当時すでにラッキーはそこそこおじいちゃんだったけれど、6歳や7歳(もっとも障害や地方となるとまた別)が潮時の競馬ウマとちがうため、彼がいくつだったかはおもいだせない。

 わたし、もう今じゃ、あなたに会えるのも……。スーパーカーではない、さりとて輓馬ともちがう、ラッキー。おおまかな輪郭や雰囲気はまだバカオロカなぼくのなかでトロットしてるのだけど、サンダーではない(こういう天丼やめましょうね)。ものすごくかわいい顔をして、気性の荒い馬だったという。それでも、大乃国かラッキーかを見せておけば幼少期のぼくはニコニコしていたらしい。


 そして話はダビスタに戻る。小学生となり、ラッキーは寿命を全うした。スーパーファミコンで(まだサンデーサイレンスがおらず、ノーザンテーストやブライアンズタイム、トニービン、そして魔のナスルーラのクロスの時代だ)ダビスタをしていたぼくは、小学校卒業間近に、どうしてだか馬に乗ることになった。同級生の女の子が「明史~!乗馬したい~!」と言った、ことにより、いえ、これ残念ながらほんとうの話です。乗馬体験をしました。これまた過去の記事をご覧の方にはわかるだろうけど、当時のぼくはマシュマロです。地球に優しい。


 数年ぶりにお馬に出会った。とはいえ、せいぜい12歳なので、その数年はエリモジョージの狂った逃げっぷりくらいにでかい。そんななか、隔世遺伝なのか、いくらラッキーと毎週キャッキャウフフしていたとはいえ初心者のぼくは速歩(トロット)までなんだかすんなりいけてしまった。サンダ……親戚に三田の九鬼家がいたからなのか、サンキュー、DNA。

 問題はそこからだった。なんと、寝藁アレルギーがあったらしくて、とにかくくしゃみ鼻水がとまらない。軽速歩にうつりつつ「へくしょん、へくしょん」と変なリズムのうえでじゃじゃ馬グルーミンダウンだ。ほんとうにそんなものがあるかはわからないが、直行した病院で「あ、すごいめちゃくちゃアレルギーがある。犬、猫、スギ、ヒノキ、あとなんかわかんないけどいろいろありますね!」と言われて、そもそも当時はジュマンジ、じゃなかった健康優良児だったので馬に乗る資格そのものにびくついていたのだけど、魚籠があっても釣果がない、朝歌といえばチュウ……(これも過去の記事を微妙にひきずりつつ)ネズミ年を恨みました。いや、痩せろよ。

 そういったわけで、もう長いこと馬に乗れないでいる。

 厳密には、お馬そのものは、新冠や静内や浦河の牧場でふんすこふんすこ「かわいいねえ!」となでなでしてもとくに変わりなく、祖母も弟も午年なのでなんとはなしにだいじょうぶなのじゃないかなあとおもったりするのだけれど、たぶん、藁だ。藁なんだ。笑わば笑え。(どうしてワンタイムで3編も日記を書いていてそれをつなげたいかな、というのは真本格ミステリのせいだ。いつでも探しているよフーダニット……)


 そろそろ店仕舞いをしよう。ぼくの、最愛のシトはバブルガムフェロー。生で見て感性をもってかれたのはセイウンスカイ。歴史のうえで色あせないミホノブルボン。結局、先行(好位置とはまたケースバイケースではある)はバブルくらいで、ツインターボ、サイレンススズカ、エイシンワシントンなどがすきでした。でも、ほんとうは3コーナーくらいで力尽きる子たち。なんとか故障しないでくれ、それでも「次がある」なんていうのはエゴだ。だからかもしれない、ぼくは逃げ馬がほんとうにすきだ(齢の数え方も、条件戦のくくりも変わっちゃったけど、旧1500万下とか)。

 逃げる。逃げる。逃げ切れたなら、なんで勝っても勝ちは勝ち。上京区にはよく似合う、ちいさなぼくのプライドだよ。


 

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?