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2019年のビーン・ボール

 「完璧な詩など存在しない。完璧な絶望がないようにね」とムラカミハルキは文化的雪かきにいそしみながらつぶやいて、キクチアキフミはここに夏も冬もないことにちいさく失望する。

 詩とはなにか。2019年のビーン・ボール。セイバーメトリクスを駆使してもワイルドカード寸前で身をひるがえすのがせいぜいだ。てきとうなことを言った。ぼくは酔っぱらっている。酔っぱらってるというのも二通りあって、ひとつはそのときは正常なつもりだったのに翌日目覚めて読み返したら「ひゃっほい」というやつだ。ひゃっほいの語源も由来も用法も知らない。残りが「わたしは完璧に酔っぱらっていますよ、でもいまね、どうしても書きたいことがあるような気を三角の目をした天使が”やめれば?”とか言うのをアレしてここにぶらさがっているの」ただしせいざでなくあぐらである。あ、いま、そうです。

 詩とはなにか。なんて話は詩人同士の酒の肴としては枝豆、唐揚げ、あたりめに次ぐ、「二周目で呼ばれる」けれどそこまでの過程込みで儀式めいたたいせつなものだとおもう。結局答えはない。たこわさであり、ししゃもであり、ハムカツであり。そこに答えがないことを確認してわれわれは安心する。きっとね。詩人は(すくなくともプロアマ問わず”詩人”を名乗るひとは)負けず嫌いが多いので、なんというか、こういった全世界許容的停戦状態へと続く道のりについて、タテマエとしてわやがや言うは言うものの、やっぱりほっとするのだ。きっとね。

 詩とは。詩でしかない。

 たとえばこれがりんごであって、それをもじゃもじゃしてよいのであればぼくは「赤すぎてなんか色味が重い」「富士より紅玉のほうが物語的にいいなあ」「全体像より断面が見てみたい」などと言えるだろう。いや、言う。お父さんお母さんに止められても言う。ただ、問題は、詩は、詩なのだ。

 詩は、作者が詩といったらば、詩である。だからなんでもいいのだ。

 実際そこまで言い切りたくないなあ(なぜかというとめちゃくちゃややこしいからである。このめちゃくちゃなややこしさについてはそれだけで400枚の小説が書けるので勘弁してください)という気持ちはあるが、冷静にその一点、大前提をうしなってはぼくら(詩人のことです)は線香ならば立ち切れてしまうだろう。はなからやる(やられる)気の老若男女が技術や経歴はともあれ来てくださるワークショップ等は別だけども、ここは全方位的にゼロ100でないと話が進まないのも事実だ。

 詩は、詩である。なんでもいいのだ。

 ただ、別に詩にかぎらず、twitterやSNSの発言だって、投稿したらそれはすでにひとつの発信である。表現じゃないよ?ただの愚痴だよ?等エクスキューズしないかぎり数十億人かどうかのユーザーにとっては「知らんがな」だ(しても変な人はいるのでそういった層には風の歌でも聞かせておこう)。都合のいいときだけおじいちゃんぶると、もはや、わしゃ、そういうん、ようわからん。情弱というより遷移するネットリテラシーについてかれへんのじゃ。あばば。

 何度もいうけれど、詩は、詩である。

 ぼくはそれ以外の正解をこの口から紐解くことができない。それでも、どんなシチュエーションであれ、人目にさらす以上は「おもってた反応とちがった」「すごい!って言われたかったのに酷評された」みたいなすれ違いは当然あるとおもってほしい。繰り返すけど、それ、「うちの彼氏マジイケメンじゃない?」「う、うーん、そうね」みたいなのと一緒だとおもう。パフェ食おう。やるせないたましいをまぶしたパフェ食おう。

 なので、ぼくがやれることといえば、そういった間口敷居での蹴躓きをなるべく解消、予防するに尽きるのかな、と考えています。トーナメントプロというか、自分がまだ最前線にいるのに(現代詩人は徐々に批評サイドにフェードアウトしていく流れがある)そこまで普及(これは受け手含めた話で。でもこう言うと気を悪くするひともいるのかな……)に手を広げなくても。そういう気持ちはある。でも「やれること」と「やらねばとおもうこと」がすくなくとも合致してるし、というかそれを20年やってきてなんでもやったけどなんでも中途半端だった暴走王子です。そしていま、ぼくはステージの上で最強だ。なにを失っても即取り返す。大丈夫じゃん。報復死球は顔以外でおねがいします。


 詩は、詩だ。

 詩を、詩以外のことばで、世界で、つるつるとつたおう。だれかにきこえるようにうたおう。

 

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