Your words 設定 you free

 詩を書いている。朝起きてはたばこ3本と引き換えに一編書き、ハヤシライスを食べたお皿を水につけているあいだに一編書く。ガチャかよ。時間回復のブラウザゲームかよ。

 昔のえらい仏師は、仏像は彫るものでなく、その木のなかにいらっしゃる仏様をお迎えするのだというようなことを言っていたが、ぼくはステータスを「せっかち」に全振りしたタイプの人間なので、ちょっと掘って飽きたら堂々とお蔵に入れて泣いてもわめいてもカギなど開けてやらないのである。さきほどふと調べてみたら、このnoteの下書きだけでそんな子たちが数十編いました。ぼくのことは妖怪虐待おじさんとでも呼んでください。


 突然だが、ぼくは詩における設定というものがあまりすきではない。自分に正直にいえば、なんか生理的にきらいだ。この「なんか」「生理的に」というあたりにそれなりの葛藤や懊悩を見て取ってくれる人はいいひとです。さておき、設定というのはたとえば、『この詩の話者「ぼく」と「きみ」は恋人関係で~』みたいなことである。それくらいさっくりしていればともかく、すごいと年齢設定とか、つきあって何年目とか、架空のエピソードまでずるずる固めちゃう書き手もいる。わりと、少なからずいる。それ、小説にしなはれ、とわたしのなかの開高健が疲れた顔してつぶやく。

 たとえば感想で「大学生同士の恋愛かな?っておもいながら読みました」「そうなんです!わかっていただけてうれしいです!」みたいなやりとりを見ていて、クイズや水平思考ゲームじゃないんだから、とツッコみたくなった経験はないだろうか。詩は自由だけど、「わかってくださいツール」とすると一気に品下がってしまう傾向がある。それなら「どうせお前ら一個もわかんねーだろうけどめちゃくちゃ高等技術織り込んでっからな」的ぺダンチストのほうがパリコレ感あって(ファッションという意味でも別枠だけど)なんぼかましである。

 ところで、勘違いしてほしくないのは、設定=イメージではないということ。あー、雨がふってる、ちょっと肌寒いな、誰かの後ろ姿が浮かぶな……みたくして描かれたものはイメージの産物である。イメージは規定しない。「大学生の恋愛のつもりで書いたのに熟年夫婦ものって読まれたわどうしよう……」と頭を抱えるのが設定(のひと)です。別にそこはそういう読み方があっていいじゃんたのしいじゃん、でよかんべ?要するに、自分のなかに、その詩の「正解」を持っていたくなっちゃうと、そうなる。怖いから。非常にとげのある言い方をすると、言い訳からはじめることができるのは設定ものの利点のひとつではある。でもそれじゃ詩は笑ってくれないっす。


 などとめずらしく真面目なことを書いているのだが、今朝、なぜだかふと、詩に架空の人物を登場させてしまった。アイコンとしての「田中さん」「少年A」みたいなんではなく、ぼんやりとだが確実に固有名詞のうえにゆれている子たちだ。名前を、コーヘイ、と、サワちゃん、という。とりあえず彼らの詩は書きあげたのだけれど、あまりにふたりがかわいいので、連作ものにするような気がしなくもない。設定?嶺南弁をしゃべるくらいです。それ以上はおら恥ずかしくってできねっす。

 でもなんだかんだ言いながら、ぼくは中途半端なものがきらいなだけなんだろうとおもう。鈴木志郎康を見よ。彼は架空の言語体系を確立させそれで詩を書いたぞ(意味不明)。谷川俊太郎なんて駅から自宅への道のりを丁寧に描いて、そのとおり歩くとなんとどこにも着かないというパンキッシュな作品持ちだ。詩はときとして傷とか涙でできているから、作者にとって大切なものになりうるということは知っている。ただ、詩に台本はいらない。すくなくとも詩のほうではそうおもっているだろう。

 なのでむしろ「この詩を読んで以下の謎を解いてください。ヒントはすべて作中にあります」みたいな突き抜け方をした作品があれば読んでみたい。やってみなはれ、と、わたしのなかの開高健が軽々しく首肯する。

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