空手と俳句

「空手をしてました」と言うたびに、「えっ!意外!!」と驚かれる。
「一応初段で、黒帯です」と続けると、「怒らせんとこ……」と返される。

私が空手を始めたのは5歳の頃。自らやりたいと思ったわけではなく、ただ近所に道場の先生が住んでいたからという理由で始めました。
元々運動神経が抜群に悪かったため亀も驚くほどのスローペースでの上達ではありましたが、昇級審査に合格するたびに帯の色が変わっていくことが大きな達成感でもありました。

空手には実際の敵を相手にする「組手」と仮想の敵を相手にする「形」の2つの種目がありますが、痛いのが嫌だった私はどちらかというと「形」に力を入れて取り組んでいました。
空手の経験のない友人に、「形って何やってるの?」と聞かれたことがあります。確かに知らない人にとってはコートの真ん中でなにやら一人で動いているだけに見えるでしょうし、実際東京オリンピックの際も「組手は分かるけど、形はどうやって優劣を判断してるの?」という疑問が湧いていたようです。
一見意味の無いような動きであっても「形」には一挙動一挙動に役割があり、仮想の敵(場合によっては複数人)を制圧するまでの攻防のストーリーが込められているのです。そのストーリーを理解することで、はじめて一つの形の上達につながります。言わば、一つでも挙動が欠けると成立しなくなる繊細のものでもあるでしょう。

初段を取得するための審査で、突きや蹴りなどの基本動作・組手に加えて形を披露する必要があったのですが、私が選んだのは「抜塞大(ばっさいだい)」という形でした。名前の通り「塞」を「抜」くような力強さと大きく身体を使う動作が特徴の形で、特に一挙動目で真っ直ぐに相手の懐へ飛び込む動作がカッコいいです。
審査へ向けた練習の中で、形を何度も全体を通して演武をするのはもちろん、一つ一つの動きを何度も繰り返し、徹底的に身体に叩き込むこともありました。大袈裟ではなく、一挙動目の動きの練習だけで稽古が終わることも。
何度も同じ動きを繰り返していくと、次第に感覚が研ぎ澄まされてくるのが分かります。いないはずの敵が見えてくるような。イメージと身体がきれいに一致する瞬間が、少ないながらも確かにあったのです。そこから、他人の形を見るときもこれまでの何倍も感動を覚えるようになりました。
コートの上でたった一人で演武をしているようで、背景にいくつもの影が見えます。それが美しい形なのです。

高校では文芸部に入り俳句を始め、空手の道場にはほとんど顔を出さなくなりました。空手から離れた生活を送ることになるかと思いましたが、文芸部の部室のすぐ横のピロティが空手部の活動スペースであったため、その練習の音を聞きながら句会を行う日々が続きました。
ある日、高校の裏手にある河川敷で吟行をした時のこと。眼前の景色をじっと見つめているとふと感じました。物を見て俳句を作ることは空手の形を極めようとすることと似ているのではないかと。
目の前の風景に集中して自らの心を傾ける。すると、やがて漠然としていた風景の細やかな部分まで晴れ渡り、見通すことができるようになります。
これは、形の一挙動一挙動を極めることで、全体の精度が上がっていく感覚と同じもの。
景色から浮かび上がる諸々のイメージが、自身の言葉と重なる瞬間。その瞬間に、詠者の言葉の背景が確かに見える「私の俳句」が生まれます。どの言葉も欠けては成立しなくなる、互いが互いの均衡を保ちあう繊細さがあるのです。
空手と俳句に共通点を感じるなんてこれまで誰も考えたことのなかったことかもしれませんが、空手・俳句共に10年近く行ったからこそ見えてきたものなのだろうと思います。(以上のように感じた当時は、俳句をはじめてまだまだ1・2年の初心者ではありましたが……)

吟行からの帰り、ピロティからこぼれてくる空手部の声を聞きながら、幼い頃から何度も唱えてきた道場訓をふと思い出しました。

  訓
一、人格完成に努むること
一、誠の道を守ること
一、努力の精神を養うこと
一、礼儀を重んずること
一、血気の勇を戒むること 

いついかなる時も、かくありたいものです。


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