山城で熊に遭遇した話
「今年は熊が多いから、夕方に山に入っちゃダメですよ」
坂戸城見学を終え、立ち寄った城下の直江兼続公伝世館。
靴紐を結ぶ僕の背中に受付の女性が声をかけた。
「今年は特に多いですから」
(そういえば、さっき行った坂戸城主郭の社にもそんなお知らせが貼ってあったな…)
「分かりました」
と言いつつ、僕は他人事のように、話し半分で聞いていたかもしれない。
というのも、雪と吹雪で二度も断念した坂戸城を、その日ついに見学できたのだ。
気が大きくなっており、格闘技をやっていたこともあり「もし出てきても、ツキノワグマなんぞ、恐るるに足らず。左フックをかましてやる」とすら、思っていた。
それに僕の腰には有るものがついていた。
山に入る時の必須アイテム。
動物たちとの突発的遭遇を避けるための道具。
熊鈴だ。
上越線の五日町駅で下車し、六万騎山の麓に降り立ったのは15時50分。20分程で山頂の主郭部にたどり着ける規模の城だ。
(ギリギリ日没まで間に合う..よし行こう!)
城を目の前にして、熊のことは少し頭に引っ掛かっていたが、車通りも多く、麓にコンビニもある。
そんな環境が弛緩させたのかもしれない。
六万騎城
素晴らしい遺構を満喫し、予定時間に下山を始めた。
(家着くのは遅くなるし、夕飯は麓のコンビニで済ませるか…)
そんなことを考えながら、見学路の階段を進む。
その階段は真っ直ぐ麓の方まで延びている。
夕方ということもあり、誰ともそれ違わず、夕霧の中、熊鈴の音だけが響き渡る。
僕が異変を感じ足を止めたのは、中腹に差し掛かった頃だった。
ぼんやりとだが、前方右側。
背丈ほどの藪の向こう側に黒っぽい「何か」が「あった」。
(おかしい…)
そう思った。
木が腐って黒くなっている様子とも違う。
雷が落ちるほどの木の大きさでもない。
碑にしては遊歩道から見づらい所にある。
どうしても気になる。何か得体の知れない物の横を通るのには抵抗があった。
恐る恐る近づいて手前の藪をどけた。
ソレは居た。
自分と同じ背丈、逞しい腕、ずんぐりした胴体。
胸にかかる白い三日月型の模様
黒い毛皮
鋭い爪
3メートル程先、後ろ足で立ってこちらを伺うツキノワグマがいた。
一瞬、息が止まる。
(一瞬で詰められる距離だ…)
咄嗟にそう思った。
足場も悪い。こちらに向かってきたら、一方的にやられる…
幸いにも、数秒のにらみ合いの末、熊はガサガサと見学路と反対方向に走って逃げていった。
(早くここを離れなければ…)
足が震え始めた。走らないように、四方を警戒しながら下る。足音もできるだけ大きく立てて歩いた。
熊の嗅覚は犬の数倍。石狩沼田幌新の獣害事件では、夜間で視覚のみに頼る人間の行列を、嗅覚に優れた熊が次々と襲った。
福岡大学ワンダーフォーゲル部の事件では、熊に先回りされた学生たちが犠牲になった。
つまり、熊が一時的に逃げたからと言って、安心はできない。僕が、山のどのあたりにいるか、「嗅覚レーダー」でわかるのだ。こちらは背丈ほどの藪と霧で視界がきかない。
冷や汗が滲む。鳥肌が立ち、鼓動が早くなる。
(熊鈴付けていたのに何で…)
動揺しつつ、後方の警戒しながら、早足で下山。
コンビニに逃げ込み、震える手で警察に連絡した。
電話に出た警察の方から言われた言葉に背筋が凍りついた。
「最近、駅付近で人襲って重症負わせた個体だね。大きさからして間違いないね」
完全にチェック不足だった。
買ったコーヒーの味がしなかった。
僕もそれ以来気を付けているが、
・山城に入る場合、熊鈴は必ずつけていく
・ただし、熊鈴を過信しない。人になれた熊にはきかない。
・熊情報を軽んじない。必ずチェックする。
・人の生活圏にも出没する。
・ツキノワグマも大きい。
これを心がけるべきである。