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輪廻転生コンテンツで生きるモチベを上げる

先ほど『NHKスペシャル チベット死者の書』の「第1回 仏典に秘めた輪廻転生」というドキュメンタリーを観終わった。92年の作品だが、内容の濃さに加えて、ナレーターが緒形拳で渋かったし、チベットの人々が着る民族衣装もすてきで大満足の内容だった。

こうやって時折、生死に向き合うような映像資料や映画をあさっては、「生きるとはなにか」「死ぬとはなにか」「善く死ぬためにいま何をすればいいか」などとぼんやり考えている。

いつからかそうなったのかというと、十代の前半くらいに遡る。生きづらさみたいなものを感じていた若者たちと同じように、その頃の私も、生きている意味はあるのか、死んだら楽になるのだろうかとか考えていた。

そして考えれば考えるほど、死の先には何もなく、真っ暗な宇宙にぽいと放り出されるような、奈落に突き落とされるような、途方もない恐怖を感じるのだ。悪夢ばかり見ていた。

きっとこの恐怖は、自分だけじゃなく先人たちも感じていたはずだ。だって死なない人間などいないから。それで宗教なんかもできたんだろう。そう思った当時の私は、ヒントを得るために、キリスト教やイスラム教、仏教の成り立ちを調べた。特別賢いわけではなかったので、子ども向けの簡単なものだ。

どの宗教も、なんで発展したのかわかるような、分からないような......という感じだったが、とりあえず、ピンとくる話が多かったのが仏教だった。なにより、死と向き合う姿勢や考え方が面白いと思った。そこで輪廻転生という言葉の意味を少しだけ深く知ったわけだ。

死後、人間の思考や記憶、精神、魂はどうなるかという話は、今も色々なところで語られている。臨死体験した人の体験談も色々あるが、正直自分が死んでみないと、実際どうなのかはわからない。魂など関係なく、無情に消滅する可能性もある。どうせわからないのだから、一旦仏教の言う輪廻転生というやつを死のゴールに設定する事にしてみた。

輪廻転生をするということは、前世があり、来世もあるということだろう。振り返ってみても、前世の記憶は特に思い出せない。ただ、なんというか、人間としてとても未熟であるとう実感があった。なんならワンコの方が賢くて誠実なのではと思うくらいだ。前世はきっと低レベルな人間だったのかもしれない。

来世が今よりもうちょっとできた人間であることを目指して、今世を生きれば上出来だろう。そう思った私は、徳を積んで成長する「徳積みゲーム」なるものをはじめる事にした。解脱は無理ゲーである。自己流解釈すぎて、仏教をちゃんとやっている人に怒られるかもしれない。

ただ、その頃はもう高校生になっていたが、未熟であることを認めて、道徳心を身に付けて徳を積み、最期に「善く生きたわ」といって晴れやかな気持ちで死ぬという人生の目標ができただけで、だいぶ楽しく生きられるようになった。

そういう風に生きようと決めてから、時間の感覚も、直線から螺旋状になったようだった。進んでいる最中は直線のように感じるのだが、ある地点で「一周まわってきたな」と気づくのだ。

生きていく中で精神的な生と死を繰り返しているのだろうか。その時に前よりもちょっとは善い人間になれたかなと確認し、成長を実感する。正直、そうやっていかないと私は生きていけないのだが、みなさんは何を生きがいにしているのだろう?

信仰心は特にないけれど、せめて自分だけは信じて、ワクワクしながら生きたい。輪廻転生コンテンツを観るたびに、そんな初心を思い出す。

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