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野次馬根性と恥、DVの現場を見て感じたこと、ゴミを拾うこと

こんにちは。
ゆです。

さっき、DV男とその彼女らしき人物の諍いの現場に遭遇した。ここから先はその一部始終とぼくの行動と感情の動き、その後の内省を綴っていく。


非日常性はぼくに野次馬根性を生じさせた

まあまあ大きい都市部の駅構内を歩いてた。ここ数年で増築・改装された、新しい造りだ。

用事も終わり、改札に向かって歩いていた。突然、男女の口論が聞こえてきた。おそらく男性が女性に対して、素手か何かで叩いている音が聞こえてくる。

ぼくの心はまず、「一体誰と誰が何をしているんだ?」と、野次馬根性を全開にさせた。

その後、正義感が顔を覗かせて「仲裁に入らないと」「なにかしないと」とぼくの身体に、反射的に命令を出した。しかし、身体は動かなかった。

様子を見ながら、少しずつ近づいていた。すると外人らしい2人組が、口論している2人にずんずんと近づいていった。それに合わせてぼくもずんずんと近づいた。

おそらく、ずんずんと近づく誰かがいなければ、ぼくは決して近づきはしなかったろう。

外人が声をかけた。暴力男は「大丈夫だ」と言った。対外的な表情と対外的な声色で。既視感があった。ドラマで見たことあるな、こんなシーン。男はバッグを持っていた。きっとそれで女性を叩いていたんだろう。

外人が声をかけたので、ぼくも声をかけた。「大丈夫か?」と。男は「大丈夫だ」の一点張り。外人は去っていった。ぼくはまだ近くにいた。女性の駅員さんが駆け寄ってきた。ホッとしてぼくもその場を離れた。駅員さんも軽く声をかけた程度で離れたみたいだった。

「ここだと目立つから場所移動しようぜ」という男の、目立つ声が聞こえてきた。その後はもう知らないが、場所を移動したとしても何も解決しないだろうということだけは分かった。錆びてそれ以上回ることの出来なくなった歯車が、ふと頭に浮かんだ。


「野次馬根性を抱いてしまった」という恥、あるいは罪悪感?


その後、もしくは最中から自分は内省していた。情けなく思った。

「大変そうな状況だったのに、割って入ろうとするばかりか野次馬根性を抱いて、その周りにいた数人の野次馬と同じく近くにいるのに、第三者のように、まるでニュースの現場を眺めるように成り行きをただじっと見ようとしてしまった」という恥を感じた。野次馬根性剥き出しで、好奇の目をもってその現場を眺めていることの気持ち悪さに耐えられなかった。

うーん、こうして書くと分かるけど、正義感が強いなおれ。良くも悪くもだけど。きっとあそこにいて何もしなかった野次馬のうちの誰も、こんな内省をすることはないだろう。良いのか悪いのかは、知らんけど。


外人男性は迷いなく声をかけたのに、ぼくは二の足を踏んでしまったという後悔

またぼくは、後悔に襲われた。ちょびっとだけ。

真っ先に声を掛けに行った外人男性がいなければ、ぼくは決してその現場に割って入ることは無かった。ファーストペンギンが海に飛び込まなければ、ぼくは決して飛び込めなかった。

情けないなと思った。ネガティブ自省モードに突入しそうになった。


正義感は作動したが、真っ先に仲裁に入ることは出来ず、二の足を踏んだ。でもそれって仕方ないことじゃない?

同時に、まあ仕方ないかとも思えた。その日は寝不足で体調が優れなくて、判断力も下がってた。

何より、「仲裁に入らないと!」と思った直後、「でも、仲裁に入って危ない目にあったらどうしよう」とも思った。自制心が作動した。生き物なんだから生存本能がある。危なそうな所には近づかないのが、死なないためにまず大事なことだ。

ぼくは、海に飛び込むファーストペンギンになれなかった、その後ろにいる無数のペンギンと同じ臆病者だ。それは生き物である限り付いてまわる業のようなものだ。

仕方ない。飛び込めなくても仕方ない。それの、なにが悪い。


声をかける相手を、その相手が何で声をかけてほしいかを間違えたかもしれない。もっと上手くやれたかもしれない。というぼくのクソ真面目な正義感と向き合って。


今思えば、女性の方に「大丈夫か?」「警察に来てもらいましょうか?」と聞くべきだった。男は「大丈夫」と乾いた目と不自然に明るい声でぼくたちを制した。とても大丈夫なようには見えなかった。

男性は女性に、手をあげていたんだ。なんでもいいから女性に声を掛けるべきだった。だが、それがより一層男性の怒りの炎に薪を配ることになったかもしれない。なにが正解だったかは分からない。

だいぶ長引いてしまった。「自分はどうありたいのか」を考えて、筆を置くとしよう。


自分事のうちにある問題については、自分にできる範囲で解決されていてほしい。そう自分自身に対して期待しているんだ。これはぼくの祈りだ。

ぼくは自分が元気な時、落ちているゴミを見つけたら、よく拾っている。あまり元気出ない時は、見つけても拾っていない。そして勝手に、「また拾うことができなかったな…」と一瞬自己嫌悪に陥ることがある。

たまにテレビで「日本はゴミが落ちていなくてめっちゃキレイだ!」という外国人の感想を聞く。それを聞いた時は、「日本人は公共の場を綺麗に保とうとする意識がある!なんて誇らしいんだ!」と思っていた。

ゴミを拾ううちに、またゴミが落ちていても素通りする人(自分自身を含め)を見かけるうちに、そうではないということが分かってきた。

少なくともぼくが観測してる範囲において、街をキレイにしている人・ゴミを拾っている人は清掃員だ。「ゴミを拾ってくださいね」という仕事を与えられた人、義務付けられた人がキレイにしている。その他大勢の人(ぼくを含め)は見て見ぬふりをしている。もしくは、見てすらいない。

「ゴミは拾われていなければならない」という社会通念が、社会にゴミを拾わせているだけだ。「ゴミを拾う行為」は社会のシステムの中に組み込まれているのだ。

小学校で「落ちているゴミは拾いましょう」と習った気がするし、自分達が使った教室や黒板や体育館は自分達で掃除をしていた気がする。そこで養われるべき「公の精神」はぼくたち一人一人の内に宿ることはなく、外部化され、システム化され、ぼくたちの意識の外に追い出された。「みんなが使っている場所はみんなでキレイにしましょう」という崇高な倫理観は、そこには無かった。

「みんながやっているなら、あなたも同じことをしましょう」「みんながやっていないなら、あなたもそうすべきです」「みんながゴミを拾ってないんだから、あなたも拾う必要はありません」という世間体ファーストの価値観が、ぼくたちの中に根付いている。それは拭いがたいものだ。

「隣の人の顔色を伺う」のは「普通であること」だ。それもまた、生物の生存戦略のひとつなんだろう。それが仕方ないことなのは理解できる。

ただぼくは、ぼくのために、ぼくの魂が汚れないように、ゴミを拾いたい。みんなが拾うべきだ、とも、落ちているゴミを見つけたら拾いましょう、とも、言うつもりはない。そんな綺麗事こそ、ぼくはゴミ箱に放り込んでおきたい。ぼくは、ぼく自身の祈りのためにゴミを拾いたい。その行為を気の遠くなる回数繰り返した先にある何かへ、手を伸ばし続けたい。誰かが誰かに暴力を振るっていたら、とりあえず声を掛けてあげたい。たとえ、求められていなくても。流れ弾に当たって血を流したとしても。(いや、やっぱり血を流すのはイヤだなあ…痛いのもイヤだ…)

これがぼくの、祈りのひとつだ。

心と身体が疲れている時も、ゴミを拾えるようになりたいな。

じゃあまたねー


P.S.

かっこつけて締めたし書いたことはウソじゃないけどけど、ゴミを拾う理由のひとつに、「みんなが拾わない中、みんなに見られる中、ゴミ拾うおれかっこええ〜」と思いたいということがある。人目につく中でゴミを拾う自分自身に酔えるんだ。

カッコつけたままじゃ気持ち悪いから、正直に告白しときますね…これで帳尻合わせしとく…プラマイゼロね…ナルシストなのぼく…

バイバーイ

さっきも駅構内に落ちてたゴミを拾ったよ。いぇーい。

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