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【209】巨人:山本周五郎「樅の木は残った」をMMC SUKOYAKAさんの朗読で聞く


1 朗読を聴く楽しみ

 以前、家から会社まで約60kmを車で通勤していたことがあります。
 毎日のことですからお金のかかる高速道路は使えず、通勤時間帯だと1時間半くらいかかりました。
 当時は仕事が滅茶苦茶忙しくて毎日12時過ぎまで残業で土日もほとんど休日出勤という今では考えられないような生活を送っており、睡眠時間は4時間位しかありませんでした。
 そのため運転していると眠くなるのです。ふっと意識が遠のいて、はっと気づくとセンターライン側に寄っていて慌ててハンドルを戻すなんてことが日常茶飯事であれは怖かったですね。

 特に帰りはもう疲れ切っていますから意識を保つことが辛らくて辛くて、運転しながら、もう死んでもいいから眠りたいと思ったことを覚えています。
 あるときなどは家にたどり着いてガレージに車を入れたとたんに意識を手放してそのまま眠りこんでしまったのです。
 家に入って布団で寝ればよいのに、目が覚めたらガレージの車の中で、自分であきれたことが有りました。 
 そんな毎日でしたから運転中に眠らないためにどうするかは本当に命に関わる問題でした。

 色々試しました。
 コーヒーだのガムだのは駄目です。多少は効果はあったかもしれませんが、それで眠気を抑えるまでには全く行きませんでした。
 
 カーステレオで音楽を聴くのは効果がありました。好きな曲をガンガン流していると高揚して意識は覚醒します。

 けれど毎日聴いていると飽きてきて効果が薄れてきますし、そうそう盛り上がる新ネタが追加できるわけでもありません。

 クラシック音楽は曲と演奏にもよりますが、どんなによい曲でよい演奏であっても、覚醒というより鎮静効果のほうが強いものが多く眠気覚ましには向きませんでした。

 落語も試してみました。これは効果がありました。
 三代目三遊亭金馬さんの「茶の湯」などは笑い過ぎて前が見えなくなり逆意味で危険でしたが。

 この方の落語は面白いですねえ! でも70-80年前の話ですので今の人にわかるかなあ。

 落語は面白かったのですが、何度も聴いている内になんというのかわざとらしさのようなものが気になり出し嫌になってきました。

 そして最終的に落ち着いたのが朗読でした。伊豆の踊子、杜子春、銀河鉄道の夜、赤毛のアン、罪と罰、弟子、李徴 等々、図書館からCDを借りてきて聴いていました。
 いずれも一度は読んだことがあって、よくわかっているつもりであっても、いざ朗読を聴いてみると、黙読では先を急いで読み飛ばしてしまっていたのか、アレッこんな場面有ったっけと思うことの連続になるのです。そんな新しい発見の中でこれからどう展開するのかという興味、そしてそこに読んでいる人の思いが載ってくるのも朗読を聴く面白さで、これを聴いていると不思議と眠くならないのです。

 そうしてみると今私が生きているのは朗読のおかげなのかもしれませんね。 

2 山本周五郎 「樅の木は残った」

 山本周五郎さんは1903(明治36)年6月22日生まれ、1967(昭和42)年2月14日に63歳で病没しています。
 作家としては1926(昭和元)年に文壇デビューしていますが、軌道に乗ったのは1936(昭和11)年で戦前から戦後まで活躍し、晩年まで執筆をつづけ、武家物や下町物など主として時代小説の分野でシリアスなものから娯楽性の強い滑稽物など長短合わせて数多くの作品を残しています。

 周五郎さんの長編小説としては「樅の木は残った」1954-1958年、「赤ひげ診療譚」1958年、「青べか物語」1960年、「ながい坂」1964-1966年などが挙げられます。
 中でも、今回取り上げる「樅の木は残った」は「伊達騒動」という史実に想を得たもので「赤ひげ診療譚」と並んで周五郎さんの双璧といえる傑作だと思います。

 山本周五郎さんの作品はすでの著作権が切れたことにより、その多くが青空文庫に収められて誰でも無料で読むことができるようになっており、それらはまた続々と朗読化されネットにアップされています。

 私はこの頃周五郎さんの短編の朗読をいくつも聞いており、今度は長編を聴いてみようと思い。「赤ひげ診療譚」を聴いたのです。
 そしてそれが自分が記憶していたものをはるかに上回る底力を持っていたことに感銘を受け、山本周五郎さんという巨人についても認識を新たにしました。

 そこで次は「樅の木は残った」を聴くことにしたのです。

3 MMC SUKOYAKAさんの朗読:朗読は再現芸術であると思ったこと

 「樅の木」の朗読は複数の方々が完成しておられます。
 その中で MMC SUKOYAKAさんの朗読を選んだのは、この方を聴くのは初めてでしたし、さしたる理由もありませんでした。
 聴き始めてしばらくの間は、なにか違和感があって物語に入り込めず、もどかしかったのですが、どの辺りからでしょうか、主人公原田甲斐が登場し、1部の朝粥の会に入ったあたりからでしょうか、淡々と読んでいたMMC SUKOYAKAさんの声が物語の中に溶け込み、気持ちが入ってきたのを感じはじめたのです。焦点が合ったというのでしょうか、登場人物のキャラクターが定まってきて、物語の輪郭と状況描写の鮮やかさがしっくりと像を結んできたのです。
 MMC SUKOYAKAさんの朗読は決して出しゃばることがなく、真摯で落ち着いた抑えた表現に徹していらっしゃるのですが、聴いていて、朗読というものが、ただ読むのではない、一つの表現であり一つの創造であるということを強く認識しました。

 朗読というのは楽譜から音楽を再現する音楽家の仕事と同じように、元の文学作品に新たな命を吹き込む再現芸術であるといってよいのかもしれません。
 音楽が同じ楽譜を元にしながら音楽家によって千変万化するように、朗読も読む人によって印象は大きく変わってきます。

 私の好きな音楽は、演奏者の主観を過度に打ち出そうとしない真摯で抑制されたもの、美しい音で、音楽全体がしっかりと構成され、細部の一つ一つのパッセージが明晰に表現され、そして楽譜に忠実でありながらその人の作品に対する愛情や尊敬、感動など、演奏する人の心の動きが生き生きと伝わってくるものなのです。

 朗読に関しても全く同じことが言える。 なぜMMC SUKOYAKAさんの朗読が、私の心を打つのか、その理由をずっと考えていたのですが、全く同じ理由だったんだなということが思い当たりました。

 では、音楽と朗読の違いは何があるかというと、文章であれば自分でも簡単に読むことができるが、楽譜は普通の人では読めない、ということにあるような気がしますが、逆にいうともし楽譜をほんとうに読めるならば、見ただけで音楽を脳内に再現することができ、わざわざ音にする必要などないのかもしれませんね。
 優れた音楽家の方が脳内で再現した音楽をテレパシーのようなもので直接聴くことができたらとか、そんなことができるようになったら面白いでしょうね。
 というかそれを言うなら作曲家の方が脳内に創造した音楽を直接聴く方が早いのかな。 

 余談に流れ失礼しました。
 MMC SUKOYAKAさんによる「樅の木は残った」の朗読のユーチューブリンクをそろえましたので、何を言うより、とにかくは聴いてみてください。




 全編39時間9分。
 この巨編を読み通したMMC SUKOYAKAさんの朗読は素晴らしいと思います。
 この方の朗読に出合ってよかったと思いました。

 実は私は、まだ第3部の途中を聴いている途中です。
 この先どう物語が展開しどう結末を迎えるのか早く知りたいと思う反面、益々困難になる一方の道を行かねばならない原田甲斐の暗澹たる未来を思うとこれ以上見たくないと思う気持ちもあったりするのです。

4 原田甲斐の魅力

 ところで、この周五郎版の伊達騒動の物語ですが、言えることは主人公原田甲斐の造形が実に魅力的であることです。
 うらやましいほど女性にもてて愛されてしまうのですが、原田甲斐に惹かれる理由が男の自分にも分かる気がするのです。

 この原田甲斐が史実の原田甲斐と一致しているのか異なっているのかはわかりません。
 
 全部聞いたら史実の原田甲斐を確認に行こうと思っています。

5 MMC SUKOYAKAさんのユーチューブサイト

 先日図書館に行ったときに、周五郎さんの棚を見に行き、「樅の木は残った」を借りようかと思ったのですが、パラパラと見て止めました。

 理由は朗読のその先がどうなるかを見てしまいたくなかったことと、もう一つは自分で読むより朗読を聴く方が面白いやと思ったことでした。
 困ったものです。

 *MMC SUKOYAKAさんのユーチューブサイトを下に紹介します。
 山本周五郎さんの長短の作品、そのほかの作家の作品など多数の朗読がアップされています。是非他の作品も聴かれるとよいと思います。

 周五郎さんが初めての方は「ひやめし物語」「末っ子」などの滑稽物の短編から入るとよいかもしれません。

 (28) MMC SUKOYAKA - YouTube


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