試験結果で学習者や教育機関の良し悪しを決めるって〜それダメでしょ
久しぶりのエントリーです,いろいろ考えるところがあり(サボっていたこともあり),しばらく書いていませんでした
さて,久しぶりの投稿では,ジャーナリストの出井康博氏の記事に関する私の見解を通して,試験結果で学習者や日本語教育機関の質を測定することに対する問題提起をしたいと思います。
ことの発端
2019年5月10日に,日本語学校を国が評価する際の基準として,CEFRのA2レベルで行うことが妥当かどうかということについて,以下のようなブログの記事(以下「ブログ記事」)を書きました。
「日本語学校の質保証とCEFRのA2について(1)」
その中で,ちょうどそのころにweb上で出井康博さんの書いた記事「8割以上の日本語学校は"偽装留学生"頼み(以下,「8割」)」を読み,「ひどいなあ」と思っていたので,この「8割」について「もっともらしく書かれた「嘘ではない」記事」と「ブログ記事」で言及しました。
ですが,私の「ブログ記事」はちょっとわかりづらい表現でした。わかりやすく言うと,「根拠がはっきりしない,いい加減な記事だけど,明確な嘘はかかれていない」という意味です。書かれていることの裏付けになる事実や数字が記事中で示されていません。具体的に言うと,N1,N2を取得していない留学生をなぜ「偽装留学生」ということができるのか,その根拠がどこにもないということです。どこかの博士論文が引用されていますが,この論文にも根拠は書かれていません。
その後の展開
私のブログ記事に関して,10月半ばに,フォーサイト編集部を通じて出井康博氏から取材の依頼が来ました。そのことが以下の二つの記事に掲載されています。
「「偽装留学生」増やし続ける「文科省」「マスコミ」「学会」の大罪(上)」(以下「大罪」)
「留学生に違法就労を強いる30万人計画の無責任」(以下「無責任」)
当初,私は「8割」そしてこの「大罪」「無責任」について,特に言及したり反論したりするつもりはありませんでした(理由はいろいろありますが,「議論にならない」という理由が大きいからです)。しかしながら,いろんな人に相談した結果,やはり私自身「ブログ記事」で言及した以上は,何かアクションを起こす責任があると思い直し,私の主張をコンパクトにまとめます。
私が言いたいことは以下の二点です。
1)N1,N2を取得していない留学生を「偽装留学生」と言うことができる根拠を示すべきである,示せないなら記事を撤回した方がいいこと
2)そもそも,ある一つの試験の結果だけで教育成果や学習者,教育機関の良し悪しを議論するのは適切ではないこと
N1,N2を取得していない外国人とは
・日本語能力試験のN1,N2レベルを受験していない人
・日本語能力試験を受験したがN1,N2レベルの点数が取れなかった人
このどちらかであり,それ以上でも以下でもありません。
なぜこの人たちが「偽装留学生」と呼ばれるのでしょうか。もし,定義として「N1,N2を取得していない人を「偽装留学生」と呼ぶ」ということであれば,論理が循環しています。
また,N1,N2を取得している学生が少ない日本語学校は,「偽装留学生頼み」の「悪質な」日本語学校だとされていますが,日本語能力試験のN1,N2の合格者数だけをもって,なぜ学校が悪質だと判断できるでしょうか。出井氏は,「大罪」「無責任」でいろいろ言ってますが,この根本的な疑問には一切答えていません。おそらく,答えられないでしょう。
以上簡単ですが,私の見解をまとめました。
特定の試験の結果は,ある指標にはなりますが,それのみをもって教育成果の全体を議論することは不適切だと思います。まして,試験の結果だけで,学習者や教育機関の「悪質さ」を語るなんてセンスは,私には信じられません。分野外の人はしょうがありません。でもせめて,日本語教育に関わる人,外国人支援に関わっている人,日本における外国人の問題について考えたいと思っている人は,試験結果を「人の評価」に使うことのおかしさに敏感である必要があると思います。
さいごに
実際,日本社会における外国人の受け入れに関しては,非常に問題が多く,留学の名目で働きにきている学生が多いのも事実です。それをビジネスチャンスと捉えて,ろくな教育もせずに学費だけ稼いでいる日本語学校も現実にあります。そして,それを黙認している政府の無策もあります。これは事実ですし改善しなければならないことです。
しかしながら,この現状を改善するために日本語教育の成果をN1,N2で測定するという考えは,ソリューションとしては最悪であるということを改めて強調しておきます。
そして,試験結果以外の価値を社会に対して説明していくこと。これは日本語教育関係者に課された大きな課題・宿題だと思います。