「流れ」を攻略して天鳳位になる戦術


人間は運には勝てない生き物


麻雀には「流れ」がある。

今時、こんな言葉を出すと「お、ネタ記事か?w」と、半笑いで眺め始めるヤツがおる。そうじゃ、そこの自称デジタル雀士のオマエだ。

そっそっそ。今、読み古して表紙カバーのはがれたネマタ本を、繰り返し読んで勉強のフリだけしてる、天鳳万年八段のクソ雑魚のオマエだ。
まず、その本を置け。湖池屋スコーンを食べる手も止めろ。

戦術本をこれでもかと買い込み、麻雀研究者が調べてくれるデータばかりを追い求め、何切る画像ツイートが誰かからアップされるたびに(えっと…麻雀プロや天鳳位の皆さんが答え終わって、マジョリティを知ってから参加しよう)と、30分おきにリプ欄を眺めてるオマエだ。

そうオマエらは、マジョリティ(多数派)が何かを大事にしすぎて、マイノリティ(少数派)になる勇気がないから、今もまだその低い場所におる。天鳳を何年頑張っても、頂点を踏むことができず、さらに一廉の雀士として人に注目されることもない。長い時間を費やして、凡人になってどうする。


「天鳳において、頂点を踏む」
というのは、どういうことか?

世界中から集まった400万人のユーザー全員を、見下ろす位置にたどりつくことだ。つまり「天鳳位になる」もしくは「Rランキングのトップになる」そのどちらかである。


ちなみわしは、頂点を踏んでおるッ!!

かつてわしは、すべての天鳳位のレートを越えて、Rランキングのトップに立ってしまった。エベレストからローツェを見下ろす眺めを知っている、そうじゃ、わしは天鳳の歴史に名を刻んだ、トップクライマーなのである。

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このウヒョ助がなぜ、頂点を踏むことができたか?
それは

「流れ」をつかんだからだ。

そうでなければ「現在天鳳5段のド下手のわしが、うっかり天鳳名人戦予選を突破しかけて、あやうくコバゴーやたかはると戦うハメになる危機」などは起こらなかった。

流れは存在する。

しかしカッコ悪いのは、わしはたまたま良いツキの流れに乗っただけで、自分が勝つために何か特別なことをしたわけではないのである。あまりにもツイて勝てるので、調子に乗ってアグレッシブに全押ししただけだ。

「わしの切る牌が、当たるわけがない」くらい馬鹿になって浮かれていた。山に眠る牌が、すべてわしにとって「都合のよい積まれ方」だったのだ。一度テンパイさえすれば、めくり合いにも負けず、無限にアガリっぱなしである。気づけばクソ雑魚四段だった中級者のわしが、十段目前まで駆け上がっていた。

しかしその後、17連続逆連帯(3着かラスしか引かないこと)という地獄モードの流れに巻き込まれ、あっとう間に鳳凰卓の切り立った崖を落下していった。わしのクライミング技術では、滑落を止められなかった。


「流れ」
という言葉を使う天鳳上級者は一人もいないが。
「地獄モード」
という言葉を使う天鳳上級者は大勢いる。

地獄モードは、天鳳民なら何度も経験してるはずだ。

いくら先制両面リーチを打っても、まったくアガれない。そりゃ山にないのだから、当たり前のように追っかけリーチに負け続ける。さらに何度も訪れる「また髪型を変えてみたんだけど、どう?」と、はにかむブスのようなクソ配牌。

その後も音痴が歌うキングヌーの白日のごとき、音程と声量がズレまくったツモしかやってこず。アメリカのオタク青年が参加した深海魚ダンスパーティのように、次々とカップルが完成するのを指加え眺め、そして手元の減らないフルーツパンチ、壁際でボンヤリ立ちすくむだけで半荘が終わる。それが何十試合も続く。

そんな「なんだコレは、俺は呪われているのか?」という謎の不調期間の記憶を、誰もが持っているはずだ。

天鳳十段の高段者でも「地獄モード引いたあ!」なんて叫びながら、よく7段くらいまで、時には特上卓にまで転げ落ちている姿を目にする。あの天鳳十段、協会トッププロの木原さんでさえ転げ落ちた。

比嘉プロ
が転げ落ちるのは、諏訪伝統の「巨木落とし祭り」と一緒で年に一度の恒例行事だが、木原プロが落ちるのは異常事態だ。

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Mリーグでも、昨年の白鳥プロや、今年の園田プロなども、その打ち方に悪いところは何一つも見当たらないのに、呪われたような負けが続いていた。

そして最近では、世界で一番ラス回避が上手いはずの、ダブル天鳳位・朝倉プロ「5連続ラス」を引いた。

まるで天変地異だ。

こういう「悪い流れ」というべき濁流に、飲み込まれて何もできす溺れる強者を見て、そのファンたちは「いや…麻雀ってそういうものだから」「たまたまツイてなかっただけ」「内容は良かったから、結果は気にするべきじゃない」などなどの言葉で慰める。そして打ち手もそれにうなずく。

しかし、それでいいのだろうか?

そんなんだから、みんな頂点にたどりつけていないのではないか?

麻雀に流れなどはない、と言いながら、負けた時はツキのせいにする。
まるで寒冷地の農民たちが「神様のすることには逆らえねえ」と、冷害でやられた畑を眺めるような。ツカなかった、仕方がないと、敗戦結果を前に屈服し、納得することで、心の整理を終えてしまう。

しかし「麻雀」という、まるで神様が「人類に与えた最終課題」のごとき神ゲームを前にして、逆らわず簡単に屈服しまってどうするのだ。

我々は「流れ」を攻略し、この麻雀という課題をクリアしなければならない。さもなくば人類の負けだ。もし神様に勝てる人間がいるとするならば。

それはわしら「麻雀打ち」だ。


しかし、一度神様から積まれた牌山には、人間は手を出しようがない。
そもそも麻雀において「ツキ」というのは「牌山」がすべてなのだ。

ツキと牌山は同義である。

「相手がそんな待ちを選ぶとは思わなかった」「そこで押してくるとは思わなかった」「岡田さんが状況計算を間違うなんて」などなどは、ツキが悪いとは別物だ。

もっと単純に

「自分に都合の良い積まれ方」をしてる時が「ツキが良い」
「自分に都合の悪い積まれ方」をしてる時が「ツキが悪い」

実はコレだけである。

それが長く続く時が「流れ」なのである。
時が連続するからこそ、流れなのだ。



じゃあそれに対し、人間はどう戦って攻略するか?

はっきり言おう、人間は決してツキには勝てない。
伏せられた牌山をのぞく能力がないからだ。
見えない物相手に、戦う方法がない。

これが良く「流れ議論」でいつも結論とされる「わかんないものは、わかんないでしょ」「だからわかる情報だけでだ、できるだけのことをするのが大事」に、つながるのである。

わしもそう思う。
まったくその通りである。

ただそれで納得している人たちに一つだけ問いたい。

「本当にできるだけのことをしたのか?」
もっといえば
他の発想で、ツキや流れに立ち向かう別の解答を考えなかったのか?」


よくドリブンズが口にする「別解」

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わしから言わせればこいつら、すでに世に出た解答の中から、選んでるだけだ。ただのかっこつけじゃろ! おまえら、おもくそ予選で負けとるやんけ!

悪いが彼らには、そこに新しい発想も、チャレンジもない。
試合に丸山プロを出せ、丸山を。

しかし!

わしは漫画家だ。
つねに人とは違う発想と、別の解答を求めて日々足掻いておる。

今までの麻雀解釈を常識として共有し、大勢が納得してる中。それは本当かと疑問をつねに持ち続ける、わしだけが神様と戦っているといっても過言ではない。戦い続けて、負け続けているからこその、現在のクソ雑魚5段だ。しかし、わしが欲しいのは段位じゃない。

本物の別解だ!
流れを攻略して、麻雀の謎を解き明かす、新しい戦術の発見である!


わしはある日、ニュートンが木から落ちる比嘉プロを眺めた時のように、ふと気づいてしまった。衝撃が稲妻のように前立腺に走った。

「人間はツキ(牌山)には勝てない」
されど
「人間には勝てる」

という当たり前のことにである。

その時、わしは考えた。
今まで自分たちがゆるぎない正解だと思い込んでいた

「ツモアガリこそ至上」

しかし、それは本当なのであろうか?

ツモアガリは牌山の積まれ方に結果を左右される。だからこそ「悪いツキが続く、悪い流れ」を引かされた時に、わしら人間は何もできない。神様がしたことを前に無力なまま、負けを重ねてしまう。そしていつもの言い訳で、負けを納得してしまう。それじゃ人類の戦いはそこで止まってしまう。勝ちも負けも、結局は神様のさじ加減になってしまわないだろうか?

これはエデンの園で、傲慢で貪欲ゆえに「知識のリンゴ」に手を出してしまった人間への、神様が仕掛けたトラップではないのか。わしは想像する。神様はきっと下界を見下ろして、静かにこう思って笑っているはずだ。

人間は頭が良いだけに「ツモこそ至上と思いこむ」「ツモアガリするのに最も確率の高い正解を求め続ける」そして、やがて私のシナリオ通り、詰むであろう…と。

人間はそこで立ち止まり、未来永劫、麻雀を攻略できない。
ツモアガリを狙いたがる…それこそ、神が人間に埋め込んだカルマ、麻雀の仕組みの中に仕掛けた罠なのだ。

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そう。 わしらはすでに麻雀を前に、詰まされているのである。

特に麻雀は、素晴らしい知的頭脳ゲームなればこそ、トラップに引っかかりやすい「数学が得意な頭の良い人」が興味を持って集まってしまった。そしてその人たちの意見に、みんなが追従し、それがマイノリティとなっている状態だ。

しかし神様は「漫画家」という「数学は苦手な馬鹿だけど、発想力ド根性だけはある亜種」が麻雀に関わることを予想していなかったようだ。

わしは、新しい切り口で流れに立ち向かい、神様と勝負をするつもりだ。

ここで語ろう。
わしが見つけた新発想とは。

「流れに左右されたくなければ、ロンアガリを目指す麻雀で、牌山の呪縛から解き放たれるべきである」


これである!

たとえツキの悪い時期が来て、その状況を把握するのさえ人間には難しいとしても。こちらが一貫してロンアガリを目指す麻雀なら、たとえ牌山にアガリがなかろうと、自分のツモ山に希望がなかろうと。そしてそれを眺めて神様が笑っていたとしても。

関係ない。

神様がわしにトラップを仕掛けるなら、わしは対局者にトラップを仕掛ける。点棒は神様から与えられる物じゃない。

卓上の人間から奪う物じゃ!!
わしが!わしの力で!
わしのこの手で奪う!!
すっこんでろゴッド!!

そう、ツモよりロンを目指す、わしの新戦術で!!

…うむ、これじゃ。

おそらく大勢の読者がキョトンとしているであろう。
まるで鳩が豆鉄砲食らった顔
いや
鳩と豆鉄砲、両方美味しく食らった黒沢プロを見た顔で。

しかし、わしから言わせれば。
なぜこの大胆な発想ができる人間が、今までいなかったのか?


それはオマエらが、頭が良すぎたせいである。
わしは中卒じゃ。

そして中卒で初めて、天鳳の頂点を踏んだ男である。


わしはこの発想から今、新しい戦術を作り出している途上である。
まずは天鳳の舞台で研究を続け、たびたびこのノートで成果を発表していきたいと思う。まずは天鳳位を目指す。

今、ここまで読んで「やっぱネタじゃねえかw」と苦笑いで、わしを馬鹿にしてるキサマ。そう、そこで堀慎吾プロのノートを読みにいこうとしてるキサマだ。

実はこの発想、堀慎吾プロの戦術本から導かれた部分もあるのだ。
なんて名前の本であったであろうか。
確か「たかが野球、されど野球」だ。

このわしの発想を馬鹿にする大勢が、いまだ頂点にたどり着けていないのも事実だ。おまえらは一生そこにおれ。わしは進むぞ。

天鳳始めて10数年、麻雀漫画も書き続けて、いまだチャレンジの途上である。しかし攻略してみせよう、麻雀という神々の遊戯を。

楽しみにウヒョ助新戦術の報告を待って欲しい。


「この世に生きる人は頂につこうとして歩いている。
 歩き続けている。
 そしていつも死はその途上でその人に訪れるのです。

 軽々しく人の人生に価値をつけられるものではありませんが、
 その人が死んだとき、いったい何の途上であったのか、
 たぶんそのことが重要なのだと思います。」

エベレスト登山家 N.E.オデル

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