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「努力教」はやめる

2014年の記事だが、つい最近になって再発見され、ネット上で話題になった記事がある。『黒子のバスケ』脅迫事件における、被告人の最終意見陳述だ。

凄まじい分析力だ。

彼は事件を起こし、逮捕されることで、ようやく自分自身と向き合うことができるようになったのだろう。

当初は嫉妬心から行われた犯行と思われ、犯人自身も一時はそう思い込んでいたようだが、この最終意見陳述を読むと、単なる嫉妬とは言えない重みがある。

特に印象に残るのは、「努力教」と「埒外の民」について語る部分だ。勝ち組はもとより、負け組でさえも大多数は「努力教」であるという指摘は慧眼であり、現代社会の病理の一端を突いている。

「努力は必ずしも報われるとは限らないが、努力をしないと報われる可能性はない」こういう世界観を抱いている人間を犯人は「努力教信者」と呼んでいる。実際、この世界観は大多数の人が無意識のうちに共有しているものだろう。だから犯人のような「埒外の民」──「努力により報われる可能性さえも抱けない人間」を理解できず、的外れな批判を繰り返す。

そもそも「努力すれば報われる可能性がある」という価値観は、本当に客観的なのだろうか? 実はそれも主観に過ぎず、ただ大多数の人が共有しているから客観的に見えているだけなのではないだろうか──犯人の意見陳述には、このような哲学的な問いかけが含まれている。

もちろん、「埒外の民」の世界観は主観に過ぎない。だが、「努力教」の世界観もまた主観なのだ。このことを社会全体が理解できないかぎり、また別の「埒外の民」が反逆を起こすだろう。この手の犯罪を未然に防ぐためには、「努力するという発想を持てない人間がいる」という事実を認め、なるべく早めに精神的なケアをしていくしかない。

自分にできる歩み寄りの一歩として、「努力教」を抜けることをここに宣言したい。告白すると、姫呂も以前は「努力しなければ報われる可能性はない」と思っていた。今思えば、なにを根拠にそんなことを信じていたのか不思議だ。自分自身、努力の無意味さを味わってきた人生だというのに……。

では、具体的にどのようにして「努力教」をやめるのか。まず、「報われるために努力する」という発想を捨てる。仮に努力をしなければいけない場面があったとしても、それは生きるため、お金を稼ぐためにしかたなくやっている、というふうに考える。そして、努力することよりも、気楽に生きていくことを一番に心がける。努力をすることよりも、日々の小さな幸せを見つけていくことを大切にしたい。

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