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『アタタカイカゾク』への執着から卒業

ずいぶん久しぶりにnoteを開く。
ずっとお世話になっていた恩師に「すっかりご無沙汰してしまいまして…」という感じ。
なんとなく、引け目を感じるような…。ちょっと心地悪さを感じるような…。

自分の都合のいいときだけ利用しているような、後ろめたさ…。

子どもの頃から私がずーっと手に入れたいと願い続けてきた『アタタカイカゾク』。
欲しくて欲しくて…どうしても諦めきれずに執着してきた。
笑えるほどのしつこさ。

求めても求めても、それはどうがんばっても手に入らないものなのだと、
ようやく少し諦めがついた。

長かった。片想い。

『アタタカイカゾク』への片想い。
そしそれはそのまま自分の両親への片想い。

振り向いて欲しいとずっと願い続けてきた。
「私はここにいるよ!私を見て!私に気付いて!」と。

必死に叫び、怒り狂い、自分の両親に闘いを挑んできた。
私の存在に気付いて欲しかったから。

それは永遠に私の一方的な片想いで、成就することはあり得ないのだとようやくのことで諦めがついた。

無駄な闘いだったのかもしれないなぁと思う。
どんなに必死に闘いを願っても、すべて空振りに終わってきたから。

でも
必死に闘いを挑んできたから、諦めがついたような気がする。

死に物狂いで自分の両親に対して叫び続けてきた人生だった。
私の叫びは届かなかった。

言葉にならないほどむなしいのだけど、
そんなに必死だった自分が今はとてもいとおしい。
ただただ私らしかったなぁと思う。私らしい闘いだった。

不器用な闘い方も、すべてが空振りに終わったことも、ただ私らしい。
そんなみっともない私をちっともキライにはならずにいられる。

永遠に成就するはずのない片想いに執着するのは、もうやめよう。
やっと、そう思えた。

たぶん『アタタカイカゾク』が手に入らなくても、私は私のままでいられる。

両親が全く私のほうを振り向いてくれなくても、私は私のままでいられる。

みっともない私を、私は笑って見守ることができる。

子どもの頃から、安心して『自分』でいられる場所というのが私にはなかった。

どこにもいてもビクビク落ち着かない。

自分がここにいてはいけないような。
自分がどこにもいてはいけないような。
自分が存在していてはいけないような。

ずーっとそんな強迫観念に襲われながら生きてきた。

私は存在していていいのだろうか?
もしかしたら存在してはいけないのではないだろうか?

『自分の存在』への不安や疑問にずーっと付きまとわれて生きてきた。

不安で不安で、誰かに確かめたくて、でも誰にも確かめることなんてできなくて。
でもどうしても確かめたくて、必死に闘ってきた。

答えは出なかった。

寂しがり屋の私は、ただ自分が安心していられる場所が欲しかった。

でも、今、不思議とそんなことはどうしてもいいと思える。

私に『アタタカイカゾク』があろうがなかろうが、私は存在していいハズ。

私はどこにいてもいいハズ。
どこにいても堂々と私として存在していいハズ。

「もうアタタカイカゾクなんていいや、いらない」と思ったら、
なんだか自分の存在への不安から解放されたような感じ。

『アタタカイカゾク』への執着を手放してサヨナラするのは、やっぱりとてもつらくて痛い。
自分が何十年もの長い間、必死に執着してきたものだから。

長年慣れ親しんできたその執着はそのまま私の一部になっていて
それを手放すのは、ほんとうにイタイ。

でも、もう手放すんだと決めたら、ふっと何かがラクになった。

誰にも確認する必要なんてない。誰かの了承を得る必要なんかない。
誰かに認めてもらう必要なんかない。

誰の了承もなくても、私は私のまま堂々と存在していい。

なんだか心からそう思える。

たぶん、私にとっての究極の心の安寧。

両親に振り向いてもらう必要はない。
両親に私のことを認めてもらう必要はない。

誰にも振り向いてもらう必要はない。
誰にも私のことを認めてもらう必要はない。

私はただ存在していい。
なんの条件もいらない。

理由なんていらない。意味なんていらない。

私はただ私のままで存在していい。

たぶん、私が一番欲しかった『自分の存在』への安心感。

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