見出し画像

08. 夏油傑の憧れと理想の話

同人誌『瞳の奥に眠らせて』より再録。

 五条と夏油には、互いにないものに憧れて真似しているうちに互いが入れ替わってゆき、そして互いの好きだった部分が失われて関係が破綻する、という要素が垣間見える。けれども、五条悟は夏油傑にはなれず、夏油傑は五条悟にはなれなかった。

夏油の〝憧れ〟

 夏油は自分に厳しすぎて、理想の自分が高すぎて、そこに追いつけない現実の自分に打ちのめされる。彼の憧れた姿というのが、唯一の〝親友〟だった五条だ。

 作者自身が二人を「ナチュラルボーン天才と努力型天才」と表現しているが、彼らはかなりの部分において、対比されて作られたキャラクターという印象がある。対照的な二人だからこそ、自分にないものを持っている人をたった一人の〝親友〟として、互いの違う部分に憧れを持ったのだろう。

 神や精霊といった、人知を超える存在を模した要素を衣服や装飾品に取り入れ、その力を得ようとするのは、呪術的(あるいは宗教的)には普遍的な行いだ。似せて作ったものにはその力が宿る。あるいは逆説的に、偶然似てしまったから力が宿る。

 夏油が袈裟にたった一人の親友の名がついたものをわざわざ選んだのなら、その意図は〝羨望〟と〝憧憬〟なのだと思う。たった一人の親友、五条と同じ名のつく袈裟を身に纏うのは、五条への憧れであると同時に、その力を借り受けたいという意識の表れに見える。虎の威を借る狐ではないが、他人の羨ましい部分を取り入れたいという思いがあったのではないだろうか。

 夏油は正論をことあるごとに口にして、はた迷惑で傍若無人な五条の手綱を握る役割を負っている側面があった。それでいて、あらゆることを成し得る力を持つにもかかわらず、自分にしか使わない(ように見える)五条に、羨望と腹立たしさを抱いていたようにも見受けられる。

 離反前の夏油は、規範意識や倫理観といった〝正しく在ろうとする意識〟が非常に強かった。だから、めちゃくちゃな振る舞いをする五条の自由奔放さには、顔をしかめつつも憧れがあっただろう。自分には到底真似できないからだ。

もし私が君になれるのなら、この馬鹿げた理想も地に足が着くと思わないか?

 夏油は最初から自分が嫌いだったわけではない。ひどい挫折を味わうまでは、高い理想を掲げてそこへ向かって努力することを良しとしていた。たびたび正論を口にして「ポジショントーク」と揶揄する五条と口論しているのは、己の振る舞いが正しいと思っていたからだ(たぶんその裏で、自分にできないことを当然のような顔で行える五条には、少しだけ羨ましさがあったけれど)。

 だが、それも理子の一件から崩壊してゆく。絶妙なバランスで成り立っていた二人の関係は徐々に罅(ひび)が入り、非対称にねじれてゆく。夏油は自分の理想が高すぎることに気がついてしまったのだと思う。自分の力量ではそれを叶えることは到底できないと思い知ってしまった。そして、そんな自分を許せなくなった。

 自分が嫌いな自分を周りは好きでいる、というのもまたストレスだったのだろう。夏油は自分への評価がきわめて厳しく、それをクリアできない自分を嫌いになっていった。理想の高すぎる〝私〟も、理想に追いつけない〝私〟も嫌い。だからなりたい〝私〟になったはずなのに、みんな元の〝私〟が好きで、今の〝私〟も元の〝私〟だと言うのだ。そういう〝私〟を〝私〟は嫌いなのに。

ここから先は

5,746字
この記事のみ ¥ 200

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?