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夏油傑の憧れと理想の話

夏油の着ている袈裟が「五条袈裟」という設定が意図的だったということで、それにまつわる話。
サマリー:隣の芝生は青いけれど、五条悟は夏油傑にはなれなくて、夏油傑は五条悟にはなれなかった。

※単行本15巻、ファンブックまでの情報に基づきます。
※だいたい幻覚です。昨日の今日で勢いで書きました。
※3/21修正

これの続きみたいな話です。というか一連のnoteをお読みになった方がわかりやすいかと思います。

五条と夏油には、互いにないものに憧れて真似しているうちに互いが入れ替わってゆき、そして互いの好きだった部分が失われて関係が破綻する、という要素が垣間見える。

作者自身が「ナチュラルボーン天才と努力型天才」と言っているが、彼らはかなりの部分において、対比されて作られたキャラクターという印象がある。
対照的だからこそ、自分にないものを持っている人をたった一人の「親友」としたのだろう。

夏油の「憧れ」

神や精霊といった、人知を超える存在を模した要素を衣服や装飾品に取り入れ、その力を得ようとするのは、呪術的(あるいは宗教的)には普遍的な行いだ。
似せて作ったものにはその力が宿る。あるいは逆説的に、偶然似てしまったから力が宿る。

たった一人の親友「五条」と同じ名の付く袈裟を身に纏うのは、五条への憧れであると同時に、その力を借り受けたいという意識の表れだろう。
虎の威を借る狐ではないが、他人の羨ましい部分を取り入れたいという思いがあったのではないか。

今までさんざん書いたことだけれど、夏油は正論をことあるごとに口にして、はた迷惑で傍若無人な五条の手綱を握る役割を負っている側面があった。
以下、「夏油傑の差別感情」から引用。

夏油は五条に嫉妬していないと思うけど、もしかしたら羨んでいたかもしれない。あらゆることを成し得る力を持つにもかかわらず、自分にしか使わない五条に、少しだけ羨望と腹立たしさがあったかも。

袈裟に親友の名前がついたものをわざわざ選んだのなら、その意図は「羨望」と「憧憬」なのだと思う。
離反前の夏油は、規範意識や倫理観がとても強かった。だから、めちゃくちゃな振る舞いをする五条の自由奔放さには、顔をしかめつつも憧れがあっただろう。自分には真似できないからだ。

もし私が君になれるのなら、この馬鹿げた理想も地に足が着くと思わないか?

夏油は自分が嫌いだったわけではない。たびたび正論を口にしては「ポジショントーク」と揶揄する五条と口論しているが、己の振る舞いが正しいと思っている。でも、自分にできないことを当然のような顔で行える五条には少なからず羨ましさがあったのではないだろうか。
「もし私が君になれるのなら」と夏油本人が言っているように、今までの自分では非術師を殺し尽くすことはできない。だから、離反して社会規範を破った夏油は五条袈裟を纏うことで、五条のような過剰な表情で装飾したハイテンションな人格を演じようとした。まるで五条を偶像扱いしているようにも見える。
結局演じきることはできなかったから、最期には袈裟を脱いでしまったけれど。

ところが、夏油が演じようとしていた高専時代の五条は、夏油を「善悪の指針」としているうちに失われてしまう。

五条の「欠落」を埋めるもの

五条が夏油へ「憧れていた」と形容するのはやや不適切かもしれないが、己の「欠落」を夏油で埋めようとしていた部分はあるように思う。

五条が夏油から受けた影響は明白だ。
最もわかりやすいのが一人称。彼は「俺」から「僕」へと柔らかい口調へ変え、表面上は思春期の周囲を威嚇するような態度と不安定さを引っ込めて大人の振りをしている。夏油が借り受けた「五条」の姿はない。
もちろん完全に失われたわけではないから、手ずから殺したはずの夏油の肉体を目の当たりにした時、その注意深くしまい込んだ片鱗が表出してしまうのだけれど。

五条の「欠落」とは、つまるところ「心」だ。
以下の記事で書いたことだが、五条はノブレス・オブリージュにも似た義務感を負って、それを義務とも思わず、規範を執行する機構じみた無機質さがある。

五条には、正しい倫理観――それを判断できるほどの「心」が備わっていない。だから、欠落した「心」を埋めるべく、夏油を「善悪の指針」に据えた。
ファンブックの「五条は夏油の判断を善悪の指針にしていた節がある」というのは、五条は倫理的な善悪の判断が苦手ではないかとひとつ前のnoteに書いた。
法的な違反は誰でもわかることだが、倫理はそうではない。特殊な環境下にいたら世間一般に通用する倫理観は身に付かない。多少夏油から学んで人の振りをするのが上達しても、根本的には変わらない。たった数年で埋められるほど甘い欠落ではないから、今でも時々違反する。指針はもういないからだ。

五条のイメージソングの歌詞を見たら、I could not live without youとあって驚いたけど、なるほどモラトリアムの終了と見ればI could not live without youなのだろう。お前なしでは生きていけない。でも、お前が死んだって生きていってやる、みたいな。
五条はたった一人で世界を背負って立てるほど強靱で、何を失っても壊れないほど頑丈で、そして親友と世界を天秤に乗せ、最後の一線を越えることのない冷淡さ・無機質さがある。
だから、夏油を失ったところで何の支障もなく生き続けられる。
けれど、全く同じではいられない。

夏油出奔後の方がしっかりしているのは、「子どもらしさが死んだとき、その死体を大人と呼ぶ」からだ。
五条がようやく育て始めた人の心らしきものは夏油と一緒に死んでしまったのだろう。後に残されたのは、「善悪の指針」たる夏油から学んだ通りをなぞって人の振りを続ける、人の姿をして人のように振る舞う化け物だ。
むしろ夏油を自分と同一視してべったり依存していたのをやめた分、かえって成長したようにさえ見える。

強くなってよ。僕に置いていかれないくらいに。

本質は何にも変わっていないけど、後悔だけは覚えたように、自分の青春が無残に終わった時、夏油を置いていってしまったことに気づいただろう。

子どもではいられなくなったから、夏油が羨んだ傍若無人っぷりを軽薄な態度で覆い隠して、大人の振りをするようになったのだろう。かつて物わかりのいい「良い子」ちゃんよろしく正論を唱えていた夏油の真似をして。
完治してなお消えない傷跡となった「善悪の指針」を後生大事に抱えて、もういない人間を演じ、まだそこに留めようとするかのように。

夏油が偶像とした五条はもういない。五条はとびっきり強靱で頑丈で無機質な性質だが、何があっても変わらずにいられるほど無関心ではなかった。

二人の関係の破綻と入れ替わり

生きていくうえで他者から影響を受けずにはいられない。五条も夏油も、少しずつ互いへ影響を与え、少しずつ変容していった。
そして、関係の破綻した二人は、まるで互いが入れ替わったかのような振る舞いを身につける。

隣の芝生は青い。
五条は夏油の倫理観を信頼して善悪の指針としたのに、夏油は自分からそれに違反した。
夏油は五条の傍若無人っぷりを嗜めつつも羨ましく思っていたから、五条と名のつく衣服をまとって無理してあんな箍の外れた言動をしていたのに、五条は大人の振りが上手くなってしまった。
自分になくて、自分が欲しいと思っていたものを身につけた結果、互いの好きだった部分が失われる。まるで『賢者の贈り物』をブラックジョークにしたみたいだ。

人型の化け物だった五条はずいぶんと人の振りが上達したのに、夏油は人外に徹することができず、とうとう人からはみ出すことはできなかった。

「努力型天才」の夏油は、たしかに努力を惜しまない分、凡人よりはるか高見へ上ることができる。でも、たった1パーセントの天賦の才は努力で埋めることができない。本気で努力している天才には敵わない。
二人で「最強」を名乗ったにもかかわらず、一人で覚醒した五条にあっという間に置いて行かれた。追いつくだけの才は、夏油にはなかった。

人として生まれた夏油傑は、人外の化け物になることはできなかった。五条とは根本から違っていて、一人で「最強に成った」五条に手を振りほどかれてしまった時に知ったことのはずなのに。
それでも五条のようになりたかったのだろう。自分の正しさを貫く強さが欲しかったから。

夏油は教団の教祖に収まって以降、友人と呼べる存在に出会うことはなかった。ミミナナは庇護すべき対象であり、教団の同士は「家族」だった。
だから、最後とした五条の残滓を身に纏っていたのだろう。傷口が完治しないようにかさぶたを剥がすみたいに。


夏油の理想と大義

夏油はとうとう五条のような破天荒な人間に徹することができず、自身を縛り付ける倫理観や良識を捨て去ることもできなかった。
というより、そもそも自分の理想や大義を自分で信じられていないような節が見られる。

夏油は自分の「理想」を押しつけることはない。非術師の虐殺を手伝わせてはいるが、非術師の関わらない範囲で生活を送ることを「家族」に強制することはない。
以下、note「呪術廻戦ファンブックメモ/五条悟の善悪の判断基準について他」より引用。

衣食住を非術師に頼らないことを他の「家族」に強要しなかったのはとても中途半端だと思う。いずれ非術師を皆殺しにするつもりだったのに妥協なのか、それとも非術師がいなくなった先を予想できていなかったのか。本当は実現できないと心の奥底では思っていたのではないかとすら思えてくる。
真に術師のみで社会運営を実現したいなら、修道院みたいなところを作って自給自足しなければならないのに、文明を捨てた生活をしていない。中途半端にもほどがある。非術師を殺し尽くすと、両親さえ手にかけて覚悟を決めたはずなのに。同志の意思を尊重するようでいて、信用していないみたいだ。
ミミナナには寂しさがあったはずだ。ずっと心の一部がたった一人の親友・五条悟に囚われたまま誰にも座らせない、父とも兄ともつかない夏油がそうやって自分たちの意思を尊重してくれているようでいて、その実、一線を引いていることに。

結局のところ、夏油は自分の倫理観を捨て去ることはできなかったのかもしれない。行き着く先までひた走ることしかできなくなってしまったから、心のどこかでは終焉を待ち望んでいたのかもしれない。

力は正義であり、正義は力だ。
伏黒や真人が言及しているが、自分の主張(自分の信じる正しさ)を貫くためには強くなければならない。強い方の正しさが正義となる。

その力を振るわず、夏油は「家族」に非術師の作ったものを食べることを許していた。血生臭すぎるきらいがあるにしても、行いはおままごとじみている。己の掲げる理想を「大義」と呼んだくせに、自分が正しいだなんて本当は思っていない。
五条の前を去る時、自ら「この馬鹿げた理想」と口にしたように、それが自分では完遂できないことを最初から知っていたのだ。

その良い例が、夏油の死後の教団幹部が対立して仲間割れを起こしかけていた点だ。
夏油の「家族」の思惑はばらばらすぎる。本気で自分の選民思想を呪術師(呪詛師)に広める「教祖」ならば、自分の後継や組織の運営方針を決めなければならなかった。自分一人で成し得ないから仲間を作ったはずなのに、仲間とは一線を引いている。
(夏油ほど真面目な人間なら、本気で理想を成し遂げようとした場合、自分の代で終わらない可能性を考慮しなかったとは思えない。非術師を殺し尽くした先を考えていないように見えるから、そういう方面が頭から飛んでいたという解釈もありだけど)

教団の「家族」は必ずしも夏油の思想に共鳴していたわけではないのだろう。夏油が痛々しいほどに教祖を演じ、理想と信じたものに殉じようとする姿に惚れただけだ。
ミミナナにしても同じだ。彼女たちの望みはたったひとつ――夏油の心の安寧だった。非術師の鏖殺なんて、たぶん興味はなかった。非術師への憎しみはあっても、自分たちが迫害されなければ十分だっただろう。それなのに、夏油は自分から心の安寧を投げ捨ててしまった。
でも、それを投げ捨てて大義に殉じようとする夏油だからこそ、ミミナナを村から連れ出してくれたのだけど。

五条にとどめを刺される直前に夏油が言った「心の底から笑うことはできなかった」は嘘というほどでもないけれど、自己欺瞞に近い。
本当は何もかも忘れて心の底から笑っていた瞬間はたしかにあったはずなのに、その後の自分を肯定するために、あるいは五条に殺される理由を与えるために記憶を上書きしたみたいだ。
五条は夏油と違って学生たちに夏油との関係を話さず、唯一の親友の末路を綺麗な思い出とは別名で保存しているのとは対照的に。

何もかも正反対で、だから二人は対だった。
プラスとマイナスみたいに引かれ合って、近づきすぎて崩壊してしまうほどの。


今までさんざん五条と夏油の話を書いてきたのに、まだまだ書くべきことがあるのに自分でも驚いています。本気で本2冊目が出そう。


6/7追記
大幅加筆版はこちら。6月エアブーで出ます。
前回と同じくBOOTHでの通販のみです。
『瞳の奥に眠らせて』/文庫/84p


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