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禪院直哉と禪院という家の話

※単行本19巻までの情報で書いています。

幼少期の万能感と甚爾への憧れについて

禪院直哉は26代当主・直毘人の息子であり、同じ術式を受け継いでいる。直毘人の遺言がなければ当主になっていたようで、だからこそ地位を横からかっさらっていった伏黒恵を殺そうとする。

直哉はいわずもがなのクズキャラだが、幼少期からなかなかにクズの素養を見せている。
まず、甚爾との出会いからして性格がねじ曲がっている(禪院家の一員としては当然かもしれないが)。

俺は天才なんやって。皆言っとる。父ちゃんの次の当主は俺やって。
禪院家には落ちこぼれがいるんやって。男のくせに呪力が一ミリもないんやって。どんなショボくれた人なんやろ。どんな惨めな顔しとんのやろ。

最初、直哉は甚爾を蔑むつもりで近づいた。実際には自分より強いことを思い知り、ある種の憧憬を抱くようになるが、「呪力ゼロ」の男への侮蔑を隠そうともしなかった。

真希と戦っている時、直哉が甚爾を「最強の側」に置いていることが描写される。甚爾を「蔑んでいい対象」と見なしたくせに、その強さに惹かれるのだ。
呪力がないにもかかわらず甚爾が強いことを認めたのは、禪院家の常識から外れている。そこだけ切り取れば、直哉にも素直なところがあると言えなくもないだろう。
(雰囲気からして、幼い直哉は嫡男という立場を振りかざしながら、割と無邪気っぽく甚爾に懐いて、足元にまとわりついていたのではないかと思う)

だが、それは打算的な憧憬だ。
甚爾はどれほど強くても禪院家の跡目争いには参加しない。呪術師ではない甚爾にその資格はない。だから、直哉は安心して甚爾に懐くことができたのではないだろうか。

禪院家はそのシステム上、術式を持つ男子はすべて敵になりうる。血統の正当さよりも強さが重要視される(加茂家ほどには嫡子であることを重視していない)。
甚爾は最初からそのレースに参加していないのだ。
自分の立場を脅かさない位置にいて、それでいて特定の面では自分より優れた才能を持っている。そういう人物に、安全圏から無邪気に憧れていたように見える。

子どもの頃の直哉は、父と同じ術式を継いで天才だともてはやされていた。その人生の頂点で甚爾と出会ってもプライドをへし折られることもなく、卑屈になることもなく、甚爾の強さを素直に認められたのは、甚爾に跡目を継ぐ資格が皆無だったからだ。
そういう事情を正確に把握した上で、直哉は甚爾の強さを認め、敬意を払っていた。甚爾が後継者争いで絶対に自分に敵わないことを理解した上で。

だから、父の遺言で伏黒恵を当主に指名された時の怒りは生半可ではなかった。


ちょっと話が逸れるが、甚爾と直哉の関係は不均衡だったように思う。
甚爾から直哉にどんな感情が向いていたのかは不明だが、たぶん、何も気に掛けていなかったような気がする。なにせ回想シーンが皆無だ。なんか懐いてくる坊ちゃんがいるな、程度ではないだろうか。

おそらく、甚爾は躯倶留隊に在籍していたのだと思う。
躯倶留隊は炳、灯の下に位置する、事実上、最下層の組織だ。術式を持たない禪院家の男子は入隊を義務づけられているので、順当に考えれば甚爾も所属していただろう。
その炳筆頭に上り詰めた直哉は、禪院家の求める呪術師として最強だった。直哉が組織のいちばん上に位置しているにもかかわらず、甚爾の強さを認めていたのはけっこう大きい。甚爾が直哉のことなど歯牙にもかけなかったのと対照的に。


禪院家での「強い男」について

禪院家ではことさらに「強さ」が重視されているように思う。とりわけ男には「強く在る」ことが求められている。
直哉は直毘人が死んだ後の禪院家の中では最も強いが、現在の自分が最強の側に立っているとは思っていない。

言わずもがなだが、時代錯誤な男尊女卑が当たり前の顔をしてまかり通っている禪院家では、直哉もその例にもれない。女とは三歩下がって後ろを歩くもの、そういう認識でいる。
だから、わきまえている真依にはさほど興味を示さず、女のくせに躯倶留隊に所属していた真希をいじめていた。

雑魚の罪は強さを知らんこと。誰も甚爾君を理解してへんかった。多分、悟君を除いて。

双子の妹を(不本意ながら)犠牲にして驚異的な身体能力を獲得し、甚爾に迫ろうとする真希に対して、直哉は「オマエは!! 甚爾くんやない!」と激しく拒絶する。
一番の理由は「甚爾が最も強い」と思っているからだろうが、やはり「女が男に敵うはずがない」という認識もちらついている。
今まで女だからと侮っていた真希が自分を飛び越えて、五条や甚爾と並ぶ存在になることへ、初めて直哉は脅威を覚えたのではないかと思う。

直哉の強さへの認識は複雑だ。

オマエやない!アッチ側に立つんは俺や!

上記の台詞は、直哉が真希と戦っている時のものだ。
甚爾や五条が立つ側――最強の側に立つのは自分だと言う。つまり、言葉を返せば、この時点の直哉はその領域に手が届いていない。

内緒やで。ぶっちゃけダサいと思っとんねん、術師が得物持ち歩くの。それがないと勝たれへんってことやし。意外とおんで、同じ考えのやつ。俺の兄さん方もブラブラとみっともないねん。よぉあれで甚爾君のことやいやい言えたもんや。

小刀を持っていたことを張相に「用意がいいな」と言われる場面で、直哉はそれがダサいと思っていることを告白する。ダサいと思いながら、兄(実際にはいとこやら叔父だが)たちが刀を腰から下げているのも「みっともない」と容赦なく評する。
だが一方で、この場面には直哉の努力の痕跡が見える。

直哉は「ダサい」と言いながら、術式の補助として小刀を持っていた。
自分の術式だけでは足りないから、得物を持ち歩く。つまり自分で術式の至らなさを認めているようなものだ(作中で最強格の五条や夏油が基本的に手ぶらなのもこれを肯定しているだろう)。
それなのに直哉が小刀を持っているのは、禪院家の人間として「強い男」でなければならないからだ。

はっきり描写されないが、直哉が持って生まれた術式にしても一筋縄ではいかなかったのではないかと思う。
秤のエピソードで少し語られたが、術式にも「格」のようなものが存在している。以下はパンダの解説。

保守派と揉めたんだ。そんで、保守派の「保守」ってのは何も規定に対してのスタンスだけじゃない。「呪術とはこうあるべき」みたいな思想があんだよ。釘先の術式なんかが分かり易いが保守派好みの呪術らしい呪術だ。
昔流行った「呪いのビデオ」とかさ、時代が進めば呪術だってニューテクと絡むことがある。それが術式にまで及ぶと保守派はうるせぇのよ。

直毘人と直哉のアニメーションを利用した術式は新しめに見える。コマ送りのアニメーションは近代以降の産物であり、五寸釘と藁人形に比べればずっと歴史が浅い。
例えば特級呪術師三人の術式は、いずれも旧い形態――言い換えれば、普遍的な呪術の姿を留めている。
五条の「眼」にまつわる術式は邪視・魔眼の系譜であるし(さらに言えば、土着の呪術に仏教が伝来して形成されたように見える)、夏油の「食べる」ことは八尾比丘尼などに代表される、呪術的要素の塊だ。乙骨は怨霊、すなわち「祟る」という、これまた旧くスタンダードな呪いだ。

古く伝統的な術式は歓迎され、新しい術式は見下される。それを踏まえると、直毘人も昔、総監部とかにチクチク刺されたりしていたかもしれない(それとも御三家パワーで全部受け止めていたのだろうか?)。
真希をできそこないといじめていた直哉の預かり知らぬところで、父親も昔は似たようなことを言われていたのを力でねじ伏せて当主の座に就いたりした可能性は否定できない。
そうすると、父親の威光にただ乗りしていて、なかなかにクズである。
(ただ、禪院家は多くの有力な術式を取り込んできたという性質上、新旧を問わず強ければいいという思考だったかもしれない。そもそも御三家同士が対立関係にあるようなので、禪院家は術式に関しては御三家の中でもあまり保守的ではないのかもしれない)

実際に新しい術式だからと風当たりが強かったかどうかは不明だが、直哉は自分の術式が完璧とは考えていなかった。そこまで脳天気に自分の地位に甘えていなかった。
完璧な自信があるなら、得物を持ち歩く必要はない。五条悟のように、身ひとつで戦えばいい。そうしないのは、自分の強さが「足りない」ことを自覚していたからなのだと思う。
そしてそれは、甚爾を(そしておそらくは五条悟を)見てしまったせいなのではないだろうか。

弟よりデキの悪い兄なんか居る意味ないやろ。首括って死んだらええねん。

これは張相との会話だが、裏返せば、兄は強くなければならないという家父長制的な考えだ(鬼滅の炭治郎がストレートに「長男だから我慢できた、次男なら我慢できなかった」と言うのと似ている)。
強烈な男尊女卑を掲げる禪院家では、女性は抑圧されているが、男性もまた抑圧される。女より弱い男はあってはならないし、家を守り、犠牲になるのは男の役目だ。
実際、真希が禪院家に乗り込んだ際、応戦したのは男だけだった。非戦闘員で男より価値のない女の存在は、徹底的に消されている(作画コストの都合かもしれないが)。
「弱いままでなければならない」と同様に、「強くならなければならない」もまた抑圧である。

直哉が修行するシーンはむろん描かれていないが、数多の競争相手を蹴落とすための努力を彼は怠らなかっただろう。術式や地位にあぐらをかいているわけではなく、相応の努力をしたはずだ。
直哉の小刀はその象徴なのだと思う。

禪院直哉は天才だったが、最強ではなかった。
身ひとつでは足りないことを五条悟や禪院甚爾で思い知って、自分がまだそちら側にいないことを理解していて、でも禪院家で最も強く、後継ぎになるのは自分だと確信していた。
そのねじれを受け止め、ダサいと言いながら得物を持ち歩いていた直哉は、それなりに心が強かったように思う。

ただ、ここが直哉のクズなところだが、彼は自分が「運がよかった」ことを理解していたように見える。
家の後を継ぐのはその時に家の中で最も強い男であって、歴代最強である必要はない。まして他の家の人間(この場合は五条悟)より強い必要もない。
(五条を「悟君」と呼んでいたのがおもしろかったので、五条家当主のクズと禪院家当主のクズで仲良く喧嘩しててほしかった気持ちがちょっとある)

直哉が27歳の割には幼稚な言動をするのは、五条と同じく、大人でいる必要がなかったのかもしれない。
五条が顕著な例だが、あまりにも強くて他者を必要としない場合、大人になる=社会性を育てる必要性が低くなる。助け合いが不要だから、幼稚な人格のままで許されてしまう。
直哉は禪院家で自分に敵う者がいないことを正確に理解していたからこそ、自分より目上の人間にも舐めた口を利く。

強く在らねばならないことを強制され、強く在るのが当然のことと受け止め、自分より強い存在がいることを知っていながら嫉妬はしない。
直哉はただのクズではなく、しっかり自分の力量をわきまえた上でクズの振る舞いをするのだ(自覚があるクズとか、余計にたちが悪い)。

直哉の死に方はクズにふさわしい。今まで侮っていた、術式を持っているかすら怪しい女に、ただの刃物に、禪院家で最も強かったはずの直哉は刺し殺される。

五条も直哉もクズだが、五条は具体的なクズエピソードが欠けている割に最強エピソードが入れられているのに対して、直哉は自称天才っぷりがあまり描かれない。それでいて強敵相手に苦戦しがちな上に最後は術式なしの雑魚に殺されるのに、クズなところは余すところなく見せてくれるので、扱いが天と地ほどの差がある。

結局、直哉は禪院家の当主にならなかった。
禪院家は術式を持たない「弱い女」に滅ぼされた。双子というチート手段によって能力を開花させた真希に――さんざん見下してきた相手に、直哉は敵わなかった。
そこは少し憐れに思う。


ところであんまり関係ない推測だけど、禪院家で直哉だけが京都弁を使っているのはちょっと不思議だ。京都にある家のくせにみんな標準語なのは不自然だろう。
おそらく、直哉だけがまともに小学校、中学校に通って外界に接していた――つまりそこで京都弁を学習してきたのではないかと思っている。
(以前、呪術高専に入学した五条が京都弁を必死に直していたのではないかと書いたが、禪院家のみなさんが標準語で喋っているのを見ると、五条もやはり学校に行っていないのかもしれない)
旧態依然とした禪院家を出て一般社会を経験したにもかかわらずあの性格なのだとすれば、救いようのないクズだが、そこが直哉の魅力(断じて長所ではない)だと思う。


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