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七海建人と夏油傑の「地獄」の話

※単行本15巻までの情報に基づきます。
※だいたい全部妄想と幻覚です。

七海と夏油は共に呪術師になる動機を失い、呪術師であることを諦めたという点でよく似ている。
もちろん、二人がその後たどった道は似ても似つかない。夏油は選民思想(もしくは優生思想)に囚われ、呪詛師に堕ちて非術師の鏖殺を決断した。一方の七海は、いったん普通の社会に出て行った後、舞い戻ってきて再び呪術師となった。
この二人の差は、「諦めの良さ」と「感謝の言葉の有無」なのではないかと思う。

七海の諦めの良さと「地獄」からの逃亡

七海と夏油は共に一般家庭出身だが、大きく違うのは出自だ。それによって、七海には諦めの良さがあり、夏油にはなかったのではないだろうか。

七海は言葉通り「異邦人」的要素を備えている。
真っ先に目に入るのは、クォーターにもかかわらず、いかにも外国人風のコーカソイドの血が強い外見だ。そのくせ名前は日本人そのもの。呪霊が見えずとも教室では浮いていただろう。
隔世遺伝でデンマーク人の血が強く表れた外見は、初対面では誤解を招きやすい。もちろん、日本育ちなら話せばわかるし、名前を見れば外国人ではなくハーフか何かだと想像できる。けれど、それをいちいち説明しなければならない煩わしさはゼロではない。
(京都校の西宮も七海と同じ要素があるような気がする。だから外様の視点で真依を擁護したようにも見える)

想像の域を出ないが、ハーフの母親も影響を与えていたのではないかと思う。片親が外国出身なのだから、当然、習慣も考え方も少しずつ日本人とは異なっているだろう。
周囲に溶け込むように努力しながらも少しずれた思考で、少し違う慣習を保ち続けるハーフの母親。日本人と同じように振る舞いながら、そう扱われないかすかな疲労感――そういったもので、七海の諦めのよさは形成されてきたように思う。
(ハーフの母親を想像すると、梨木香歩『西の魔女が死んだ』を思い出します。あれも主人公の母親はイギリス人とのハーフで、とうとう学校にはなじめずじまいでした)

七海が高専から――呪術界から逃げ出したきっかけは、唯一の同級生・灰原の死だった。ちょうど五条が「最強に成った」頃のことだったから、なおさら五条と比べて自分の無力を突きつけられて、七海は絶望する。

もう、あの人一人でよくないですか?

七海では力が及ばず、灰原を死なせてしまった。でも、五条ならできただろう。何でも一人で成し得る五条には。ならば、自分がここにいる必要はないのではないか?
一人で「最強に成った」五条に置いていかれた夏油も、七海の言葉を否定することはできなかった。彼も同じだからだ。

友の亡骸を目の前にして疲れ切った七海の言葉は、呪術師であることに疑問を抱き始めていた夏油の離反の一因となる。身を粉にして、時に仲間を失いながら守っている非術師に守られる価値があるのか――夏油は自問自答し、そして否定した。
この時、高専(呪術師であること)は二人にとって地獄と化す。

たぶん、この頃は皆が疲弊し、傷ついていただろう。五条を除いて。
もし硝子が灰原の遺体を整えていたなら、たとえ傷つきはしなくとも寂しく思っていつもより余計に煙草を吸っていたかもしれない。
七海が灰原の死を家族に伝えに行ったなら、「お兄ちゃんも呪術高専なんか行かなければ」と灰原の妹に泣かれて返す言葉もなかっただろう。戻ってきた無言の七海を慰めたのは夏油だろうけど、その夏油も傷だらけだ。
唯一、五条だけが「残念だったね」と軽い言葉で済ませて、能天気に術式を磨いていただろう。

けれども、七海と夏油は、同じところでつまずきながらも、異なる道へ進む。
夏油と違って、七海は静かに高専を去った。呪術師と関係を絶つことを選択した。自分がついていけないことを悟って、再び「一般人」へと戻っていった。
それは「正しい」選択だろう。自分には向かないと思った世界に背を向け、関係を絶つ。呪詛師に堕ちた夏油などより、よほど頭のいい選択だ(この頭の良さを七海自身がのちに否定するけれど)。

二人の決断を分けたのは、諦めの良さなのだと思う。
七海は諦め、逃げ出した。夏油は逃げ出せず、かといって不条理を飲み下せず、反転した。
七海は挫折と相互不理解を知っていて、夏油は知らなかった、あるいは目を背けていたようにも見える。

七海も夏油も真面目な性格をしているが、二人は真面目の方向性が違う。
生まれてからずっと相互不理解と共にあった七海は、逃げ出すことを躊躇しなかった。真面目だから相手を否定せず、ただ、合わないと感じたら去るだけだ。
きっと、今までそうしていたのだろう。それが七海の処世術だった。「私」と「あなた」は違う人間だから仕方がない、といった具合に。

一方の夏油は、合わないと思った世界の変革を志した。逃げることができなかったから。突然飛び込んだ、違うルールの支配する世界で挫折した。
たぶん、理子から始まる一連の出来事は、夏油の初めての挫折だっただろう。だから逃げるという選択肢があることに気がつかなかった。身近な人間が死ぬのは、夏油にとって初めてだったからだ(もちろん七海にとっても初めてだろうけど)。
今まで何でもできた優等生だったぶん、衝撃が強くて受け入れがたかったのではないかと思う。この世には「善人」ばかりでないことを、身をもって知った。頭ではわかっていたはずなのに、いざ自分の身の回りの人間が犠牲になって、呪術師という職のシビアな現実を思い知らされた。

夏油は己の信念を重要視している。だから正しいと信じてきたことに疑いが生じた時、反転してしまった。真面目だったから諦めることができず、正しさと間違いの間に横たわるグレーゾーンを許容できなかった。
(それでいて、夏油は自分自身を信じ切ることができない。誰かの賛同を得ることを心の底から望んでいるのではないような様子が見え隠れしているのがとても中途半端だ)
夏油は見限ることができなかったのかもしれない。もしかしたら、と心のどこかでは望みを捨てきれなかったのかもしれない。

逃げることができないのであれば、刃を握りしめて返り討ちにするしかない。
呪詛師に堕ちたのは、夏油の生存のためでもあった。身体というより心の。
初めての挫折が大きすぎたから、夏油は耐えられなかった。いずれ歩む道だとしても、いきなり特大級の試練を課され、ぽっきり折れてしまった。
だから五条に(おそらく何度も)試されるように言い争いをしていたのかもしれない。オマエはその正論に耐えられるのか、と。


七海の「地獄」への出戻り、あるいはやりがい搾取

七海はせっかくクソみたいな呪術界から逃げ出せたのに、結局、呪術師に戻ってしまう。
その契機となったのが、パン屋の女性に憑いた低級呪霊を祓ったことだった。女性が何気なく言った「ありがとう」で七海は五条へ連絡を取り、再び「地獄」へ舞い戻った。

七海の出戻りは「やりがい搾取」に似ている。
呪術師には高給が約束されているようなので、薄給で死ぬほど働かされているような事態になっていないようだ。
しかし、たかが高い給料だけでその仕事に見合う報酬になるのだろうか。

呪術師はクソだ。他人のために命を投げ出す覚悟を、時に仲間に強制しなければならない。だから辞めた。というより逃げた。
自分は〝やり甲斐〟とか〝生き甲斐〟なんてものとは無縁の人間。3,40歳までに適当に稼いで、あとは物価の安い国でフラフラと人生を謳歌する。
高専を出て4年。寝ても醒めても金のことだけを考えている。
呪いも他人も金さえあれば無縁でいられる。金、金、金、金、金、金、金・・・・・・

呪術師が公に認知されない職業だということは、「感謝」されることも少ないということだ。
「社会的地位が低い」と言い換えてもいいかもしれない。社会的地位は知名度とある程度比例する。わざわざ帳を降ろして一般人の目に触れないようにしているのだから、当然(非術師の)社会において知名度はひどく低い。

呪術師が直接的に被害者を助け、被害者も助けてくれた呪術師の存在を認識している場合はまだましだろう。何が何だかわからないうちに解決していることだってたくさんあるはずだ。そういう時、呪術師は「感謝の言葉」を得ることはない。
すなわち、やりがいは他者からの肯定によらず、己の内に求めなければならない。それが命を賭すような危険な仕事であっても。

七海は真人の領域展開で死にかけた時、潔く己の死を受け入れる(ここ、七海が本当に死ぬかもと思ったら死ななくて安心しましたね。でも作者的には殺そうとしていたとインタビューで聞いて、とても納得しました)。
領域展開を目覚めさせた真人が「今はただ君に感謝を」と言うのに、七海は諦めたように眼鏡を外して言うのだ。

必要ありません。それはもう、大勢の方に頂きました。悔いはない。

灰原も生きていれば、きっと同じことを言っただろう。七海も夏油も「呪術師になんかならなければ」とは言わなかった。それは彼らの努力を否定するのと同義だからだ。

一度は諦め、逃げ出した地獄へ、パン屋の女性に「ありがとう」と言われただけで、七海は舞い戻ってしまった。たった一言、何の金にもならない感謝の言葉で。
金で他人と無縁でいられるはずだったのに、無縁に徹することに失敗した。
七海は金で割り切ることはできなかった。他者との関わりを前提とする社会性の生き物は、金だけを対価にして生きてはゆけないからだ。

七海はやりがいというものに否定的だった。自分にはやりがいも生きがいも無縁だと主張するように、いざとなれば逃げ出すことも厭わない。実際に、一度高専から逃げ出している。
だとすれば、そもそもなぜ高専に入学したのだろうか。なぜ一度逃げ出したのに再び舞い戻ったのだろうか。

おそらく、七海のそれも夏油と同様、自分を守るために「自分はやりがいのない、冷めた人間である」と言い聞かせていたのではないだろうか。本心(やりがいを求める心)から目を背けて、物わかりのいい自分を演じようとしていた。何も感じていない振りをして、逃げ道を残していた。
見て見ぬ振りが限界に達し、自分を騙しきれなくなった時、七海は自ら望んで「地獄」へ舞い戻る。
結局、七海はやりがいを求めてしまうのだ。そのせいで友と同じように死ぬことになろうとも。
人は理性のみにて生きるにあらず、感情も同じだけ大切なので。それこそ、呪霊は負の「感情」によって生み出されるように。
己の本心を偽らずに肯定できるようになって初めて、七海は大人になったのだと思う。


ちょっと話が逸れるけど、灰原は当時の学生たちの中では、最も現実を見据えていたように見える。
灰原は、自分が呪術師になることに前向きなのにもかかわらず、呪霊が見える妹に「呪術高専へ来るな」と言い聞かせていた(ここ、とてもお兄ちゃんポイントが高い)。
単に物わかりがいいわけではない。灰原は呪術師へやりがいを見出すと同時に、その危険性もわきまえていたということだ。ただ陽気なだけではなく、冷静に呪術師という職業を見極めていた。
まあ、いい奴から死ぬ定めなんだけど。灰原の株が上がるほどに七海と夏油の闇が深まる仕組みなので、とてもいいですね。


夏油の「地獄」、あるいはやりがいを失った世界

夏油にとっての「地獄」もまた、高専(呪術界)だ。だから離脱した。
けれども、七海と夏油には決定的な違いがあった。

七海は感謝の言葉で「地獄」に舞い戻った。
夏油は感謝の言葉がなかったから、この世すべてを「地獄」に変えた。

努力が報われるとは限らない。
夏油が呪詛師に堕ちたのには複数の要因があるが、とどめの一撃は、非術師による呪力を持った子どもの迫害だった。
不味い呪霊を飲み込み、時に仲間を失い、こんなにも非術師のために力を尽くしているのに、当の非術師は呪力を持った子ども(ミミナナ)を異物として排斥した。それどころか、本当は呪霊の仕業だった事件を彼女たちのせいにして虐待した。

有り体に言って、この時、夏油はやりがいを完全に見失ったのだろう。
もとより、呪術師という職業には医療系や教職のような、万人への奉仕に似た側面がある。「悪人にも善人と同じ医療を提供できるのか」なんて、医療系でもよくぶつかる問いだ(そしてそれができない人間は適性がないということでふるい落とされる)。
ブラックにもほどがあるその職を続けられるのは、見返り――七海の言葉を借りれば「感謝の言葉」があったからだと思う。
感謝されるということは、自分が正しい行いを為したと他者から肯定されることだ(ポライトネス理論で言えば、承認欲求に似たこれはpositive faceに相当し、皆持っているのが当然とされる)。
感謝されることで、苦労が報われる。すなわち、感謝とは金銭に換えがたい対価だ。
対価が得られないのに、奉仕などしていられない。だから、夏油にとって呪術師で居続けることは地獄と化した。

何も返されないのに、何かを一方的に与え続けることはできない。ちょうど、五条が一人で有頂天になってメンテナンスを忘れ、二人の友情が破綻したように。
逃げ場を失った夏油は最悪の選択をした。

七海が死んだ巻が発売された同じタイミングで、どこかの記事で「やりがい搾取」の話が取り上げられていた。ケア産業は過酷で需要もあるのに、なぜ給料が低いのかという話だ。
軽く流し読みしただけなのでうろ覚えで申し訳ないが(探してみたけど元記事が見つかりませんでした。すみません)、要約すると「やりがい」は時として賃金を上回るほどの満足感をもたらすということらしい。
高い給料だけでは続かず、逆に低い給料でも「やりがい」さえあれば職業として成立する。やりがいが給料(見返り)の一部として機能するのだ。
それほどまでに「やりがい」――作中の言葉で言えば「人に感謝されること」――の魅力は強い。

「やりがい」はとりわけ、一般家庭出身の学生には動機付けとして強く働く。
家系枠で入学した学生は、呪術師になるのが当然という認識があるから、「人を救う」みたいなやりがいへ価値を見出すことは少ないだろう。
実際、五条は非術師を守るだなんて言わない。伏黒にしても、呪術師になることが先に確定しているから、動機なんて後付けだ(呪術師になるのが当然という価値観を持たされている方がまだしも幸せかもしれない)。

しかし、一般家庭出身のスカウトされた学生は違う。彼らには普通に就職する未来があった。それを蹴って高専に入るには、相応の覚悟と魅力が必要だ。
例えば、硝子は誰にも肩入れしないから生き残るし、それが彼女の処世術なのだろう。そういうドライさ、冷淡さが呪術界を泳ぐためには必要なのだろう。
「やりがい」は呪術師になるための動機付けとしてきわめて強力だが、それのせいで七海も夏油も苦しむ。やりがいがなければ今ここに立っていないが、やりがいを求めるほど、無情で不条理な現実に葛藤する。
(社会的地位の話をするならば、呪術師の家系にとって社会とは呪術界のことであり、一般家庭出身の呪術師にとっては非術師の社会になるだろう。呪術師になったからにはその世界での地位に収まる必要があるが、15年もかけて築いた価値観を捨て去るのは難しい)

感謝の言葉は、七海を地獄へ引き戻した。
望んで地獄へ戻るのは愚かしい行為だ。七海も馬鹿げていると自分で思っていた。いつか灰原のように死ぬことを予想しなかったはずがない。
それでも、七海は呪術師の道を選んだ。ちっぽけな感謝の言葉は七海の心を満たし、ただそれだけで地獄への道を歩むための灯火となった。

感情は、時として理性に優越する。
理性の統率を離れた感情の赴くままに行動するのは愚かしいことだ。最も重視すべきは己の生存であったはずなのに、損得を計算できないのはとても冷静とは呼べない。
けれども、賢く(時に冷徹に)生きることは難しい。

夏油だって、もっといい選択があったはずなのに、妥協点を探ればよかったのに、自ら茨の道(どころか外道まっしぐら)を突き進んだ。愚直なまでに不条理を拒絶した。
どちらも、自分に助けられる人がいることを無視できなかったから。七海は非術師を、夏油は迫害される子どもたちを守る力があって、それを行使せずにはいられなかった。
そういう彼らの愚かしくも生真面目な性根を、否定したくはない。


ところで、七海と夏油の葛藤を五条は知らないし、これから知ることもない構図、とても好きです。
七海の「もうあの人1人でよくないですか?」という台詞を五条は聞かなかった。七海が自分から言うこともありえない。だから、七海が呪術師をやめたのは灰原が死んだせいだと思っているだろう。七海が戻ってきた理由も実のところよくわかっていない気がする。未だに五条は人の心の機微に疎いだろうし。
七海の心が折れる音を聞いたただ一人の聴衆だった夏油が去り、七海本人も去ってしまった。彼らが五条悟という強すぎる光に抱いた屈折した想いを知るのはもう、読者だけなのだ。
『呪術廻戦』のこういう、読者にのみ俯瞰する立場が与えられていて、作中の人物たちは悲しいボタンの掛け間違いをしている構図、本当に好きです。
(モーパッサンやO・ヘンリーが大好きなので当然の帰結ですね)

七海はかなりモテるけど(なにせまともでない職業の中でとても社会性があってまとも)、孤独を決め込むタイプだと思う。それを五条に酒の肴にされながらも態度を変えず、「地獄に道連れにするのは申し訳ないでしょう」と言って五条の軽薄な笑みを一瞬だけ剥ぐのだ。
七海が戻って来た時には五条と飲みに行く(ただし下戸の五条は飲まない)くらいはしているだろう。「あなただけで十分です」と言おうとして言葉を飲み込み、代わりに「あなたで勘弁してあげます」と言うけれど、五条は「七海も馬鹿だねー、死ぬ時は一人だよ」といつもの調子でけらけら笑いながら七海の分の食後のデザートまで食べてしまうのに、諦めの境地で溜息をつくだろう。
七海の後ろ盾が五条しかいないととてもよろしくないので、ここは社内政治に振り回された経験のある脱サラらしくきちんと泳いでいてほしい。まあ、すべて後の祭りですけどね。


単行本派なのでまだまだ渋谷編が続いているのですが、七海の死が五条にどれだけの衝撃を与えることができるのか、とても楽しみです。
衝撃が大きければ、人の振りがうまくなったんだなあと思いますし、逆に全然衝撃を受けた風でないのなら、やはりお前は人外なのだなあと解釈できますし。どっちでもいいですね。

大幅加筆版はこちら。6月エアブーで出ます。
前回と同じくBOOTHでの通販のみです。
『瞳の奥に眠らせて』/文庫/84p




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