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五条悟の善悪の判断について(マシュマロ返信)

サマリー:
五条にはもとから基本的な社会規範が備わっていたけれど、夏油と出会ってからは夏油に指針を委ねるようになり、そして夏油が人を殺したところで「夏油に頼りきってはいけない」と目が覚めたのではないでしょうか。

マシュマロ:
うぐひすさん、いつもツイートやnoteを楽しく見させて貰ってます!ファンブックでの「善悪の指針」発言は私も衝撃でした。しかし、私の中で一部解釈が定まっていないところがあります。それが新宿で五条が夏油の仕打ちを「悪」だと断じたところで私自身はこの行動は五条の自己判断では無く、今まで夏油に教えられてきた正論に基づくものだと解釈していました。夏油は盤星教で「こいつら殺すか?」に対し「人を殺す事は悪である」と判断しており、その判断に従ったから五条も「人を殺す事」と「人を殺した夏油」も悪だと判断していると、だからこそ新宿で夏油に「説明しろ」と言ったのだと思っていました。なぜ自分に人を殺してはいけないと言った夏油自身が夏油の説く「悪の道」に進んだのかどうか分からなかったから。そして夏油も自分の行いが「したい事、しなければならない事」ではあるけれど「倫理的にしてはいけない事」であると分かっているから、いつも通りの正論が説けなかったのだと思っていました。でもうぐひすさんの解釈を読んで「五条、流石にもうちょい自己判断能力あるか?」となりました。私の五条はもし夏油が「こいつら殺すか?」に「YES」と言ったら本当に殺していたし、新宿でも夏油が口八丁で正論もどきを説き、五条を口説き落としていればもしかしたらついて行ってしまったのではと思います。
なのでもう一度うぐひすさんの五条の善悪の判断について解釈を聞きたいです!忙しいかも知れませんが時間があればよろしくお願いします


マシュマロありがとうございます。この話はなかなか難しいところですよね。
結論から書くと、以下の通りです。
①五条に「こいつら殺すか?」と尋ねられた夏油が「殺していい」と言えば五条は殺していた
②新宿で五条が夏油を間違っていると判断したのは五条自身の判断である
③新宿でもし夏油が五条を口説き落とそうとしていたとしても、五条は付いていかなかった


問題の「こいつら殺すか?」や五条の規範意識については以前この記事で書きましたので、以下引用します。

この場面の「今の俺」――すなわち術式の核心を掴んだ五条は、人の理を外れかかっている。だから、人の心は機能を停止し、何も感じない。天内理子のために怒りを感じない。意思がないわけではないけれど、その意思は人の心を置き去りに、人外じみた発想をする。
元より人外であった本質を押さえ込んでいた箍が外れかかっているようにも見えた。

理子が殺された時、夏油が「殺していい」と言えば殺していただろうと思います。その点では同意です。この時の五条は「何も感じない」、つまり規範を守ることの意義を喪失している状態に等しいと思います。
しかし、その後、新宿の雑踏で夏油を見つけ出した時、夏油が五条を丸め込んで仲間にできたかと言えば、かなり疑わしいと思います。

基本的に、五条は社会規範を守りながらも、特に意味を見出していないのだと思います。
社会規範(法の支配や倫理観)の最たるものは「人を殺してはならない」ですが、たぶん五条は格別、規範に意味を感じていないように見えます。社会的にそうと決まっていて、社会で生きるためには守らないと面倒なことになるから守っている――その程度の認識ではないでしょうか。

五条は規範を知っているし、それに従って振る舞う(人の振りをする)こともできます。五条は結局、自身の意志で人を傷つけたり殺したりすることはありませんでした。
彼は気まぐれで夏油以上の惨事を瞬時に引き起こせるほど強大な力を持っていますが、いつも口先だけなのです。夏油の唱える正論をポジショントークと言って嫌ってはいましたし、救うべき人間を数で捉えている節はありますが、非術師を意図的に見殺しにすることはないのです。
つまり、五条にはきっちり社会規範が枷として嵌められているのだと思います。

ただ、五条は法を犯すことは意図的にしないにしても、法で定められていないこと(倫理観で判断しなければいけないこと)の善悪の判断は苦手なのではないでしょうか。

善悪には大まかに2通りの基準があると思っています。
一つは法。もう一つは倫理です。

法は明確に決まっているため、判断に迷うことは少ないでしょう。
しかし、倫理は別です。少し前に流行った『これからの正義の話をしよう』などがそうでしたが、文化圏によって異なることもありますし、同じ文化圏でも人によってさまざまな尺度が存在します。
上記のnoteでも書きましたが、五条は人の振りをした人ではないもの――人型の災害みたいなもので、その心はかりそめの代物ではないかと推測しているので、この手の判断はとても苦手なのではないでしょうか。だから夏油を「善悪の指針」としたのではないでしょうか。
(本編中ではさほど出てきませんが、五条は人格的にはクズであると明言されています。そのクズさというのが、倫理観の欠如であり、人の心が備わっていない、あるいは正しく育てられなかった結果なのではないかと思っています)

五条は「夏油なら正しい判断を下せる」と思って、夏油を善悪の指針としました。つまり、夏油が「正しい行いを為せる者である」と自身が判断し、指針を委ねたのです。
(夏油を信頼していたと言えば聞こえはいいのですが、自他の境界が曖昧で互いを同一視していたような不健全さがとても匂います。詳しくはnote「五条悟と夏油傑の『親友』の話」をお読みください)

だから、夏油が非術師を大量虐殺したことに戸惑い、捕らえるより先に「説明しろ」と言ったのだと思います。夏油は「正しく振る舞う」人間だと信じきっていたからでもあるし、人の心はうつろいやすく、矛盾した行動を取ることがわからないからでもあるでしょう。

でも、夏油が虐殺を引き起こしたことを、五条は間違っていると判断する。唯一の親友よりも社会的な正しさ――規範に従う。
化物を人の形に押し込めて社会につなぎ止めるための楔が、五条には深く打ち込まれている。ノブレス・オブリージュにも似た義務感を負って、それを義務とも思わず、ひどく無機質に選択する。
規範を執行する機構じみて、あまりに強固な規範意識だ。

五条は無機質なシステムじみて冷淡に選択することができる。でもその一方で、情を捨てることもしない。
かりそめの心に獲得した情はたしかに五条を人間らしく振る舞わせ、そして、それに相反するように、迷わず親友を殺させる。

夏油と同じ視界を共有しているとずっと思っていたのに、それが錯覚でしかなく、互いが違う存在であることに気づいてしまった。その時点で、本来の規範意識が戻ってきたのではないかと思っています。
だから、夏油が説得を試みようとしたとしても、五条は思想に共感することはないし(そもそも思想に共感するほどの「心」がない)、付いていくこともなかったと思います。

夏油が新宿で五条を丸め込もうとしなかったのは、仰るとおり、夏油が倫理観を捨てきれなかったからでしょう。
自分が間違いを犯していると知りながら、袋小路に入ってしまったからもうその道しか選べない。自身を強者として定義したからには救われるわけにはいかない。けれど、もう自力では立ち止まることもできないから、終焉を希求していたような。

夏油は非術師が関わらない範囲で衣食住を済ませていましたが、それを他に強制することはなかったと明かされました。つまり、自分のやっていることが正しいとは思っていないのです。
「正しさとは相手に自分の正義を叩きつけること」「強くなければ自分の正しさを押し通すことはできない」というような趣旨を伏黒や真人が言っていますが、夏油はそうではありません。非術師を殺すくせに、非術師の関わらない生活の構築を進めない。あまりにも中途半端です。

夏油は「もうこうするしかない」と思い詰めて規範に違反し、外道へ堕ちていっただけで、倫理観は正しく備えたままなのです。
そこが、倫理観が欠如しながらも社会規範を守り続ける五条と対になっているのではないでしょうか。


6/7追記
大幅加筆修正、再構成して本にしました。6月エアブーで出ます。
前回と同じくBOOTHでの通販のみです。
『瞳の奥に眠らせて』/文庫/84p


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