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10. 七海建人と夏油傑の〝地獄〟の話

同人誌『瞳の奥に眠らせて』より再録。

 七海と夏油は共に呪術師になる動機を失い、呪術師であることを諦めたという点でよく似ている。もちろん、二人がその後たどった道は似ても似つかない。夏油は選民思想(もしくは優生思想)に囚われ、呪詛師に堕ちて非術師の鏖殺を決断した。一方の七海は、いったん普通の社会に出て行った後、舞い戻ってきて再び呪術師となった。

 この二人の差は〝諦めの良さ〟と〝感謝の言葉の有無〟なのではないかと思う。

七海の諦めの良さと〝地獄〟からの逃亡

 七海と夏油は共に一般家庭出身だが、大きく違うのは出自だ。それによって、七海には諦めの良さがあり、夏油にはなかったのではないだろうか。
 七海は言葉通り〝異邦人〟的要素を備えている。真っ先に目に入るのは、クォーターにもかかわらず、いかにも外国人風のコーカソイドの血が強い外見だ。そのくせ名前は日本人そのもの。呪霊が見えずとも教室では浮いていただろう。

 隔世遺伝でデンマーク人の血が強く表れた外見は、初対面では誤解を招きやすい。もちろん、日本育ちなら話せばわかるし、名前を見れば外国人ではなくハーフか何かだと想像できる。けれど、それをいちいち説明しなければならない煩(わずら)わしさはゼロではない(京都校の西宮も七海と同じ要素があるような気がする。だから外(と)様(ざま)の視点で真依を擁護したようにも見える)。

 想像の域を出ないが、ハーフの母親も影響を与えていたのではないかと思う。片親が外国出身なのだから、当然、習慣も考え方も少しずつ日本人とは異なっているだろう。

 周囲に溶け込むように努力しながらも少しずれた思考で、少し違う慣習を保ち続けるハーフの母親。日本人と同じように振る舞いながら、そう扱われないかすかな疲労感――そういったもので、七海の諦めのよさは形成されてきたように思う(ハーフの母親と言えば、梨木香歩『西の魔女が死んだ』を思い出す。この作品の主人公の母親はイギリス人とのハーフで、とうとう学校にはなじめずじまいだった)。

 七海が高専から――呪術界から逃げ出したきっかけは、唯一の同級生・灰原の死だった。ちょうど五条が「最強に成った」頃のことだったから、なおさら五条と比べて自分の無力を突きつけられて、七海は絶望する。

もう、あの人一人でよくないですか?

 七海では力が及ばず、灰原を死なせてしまった。だけど、五条ならできただろう。何でも一人で成し得る五条には。ならば、自分がここにいる必要はないのではないか?

 一人で「最強に成った」五条に置いていかれた夏油も、七海の言葉を否定することはできなかった。夏油も七海と同じだからだ。

 友の亡骸を目の前にして疲れ切った七海の言葉は、呪術師であることに疑問を抱き始めていた夏油の離反の一因となる。身を粉にして、時に仲間を失いながら守っている非術師に守られる価値があるのか――夏油は自問自答し、そして否定した。この時、高専(呪術師であること)は二人にとって地獄と化した。

 たぶん、この頃は皆が疲弊し、傷ついていただろう。五条を除いて。もし硝子が灰原の遺体を整えていたなら、たとえ傷つきはしなくとも寂しく思って、いつもより余計に煙草を吸うくらいはしていたかもしれない。七海が灰原の死を家族に伝えに行ったなら、「お兄ちゃんも呪術高専なんか行かなければ」と灰原の妹に泣かれて返す言葉もなかっただろう。戻ってきた無言の七海を慰めたのは夏油だろうけど、その夏油も傷だらけだ。唯一、五条だけが「残念だったね」と軽い言葉で済ませて、能天気に術式を磨いていただろう。

 けれども、七海と夏油は、同じところでつまずきながらも、異なる道へ進む。夏油と違って、七海は静かに高専を去った。呪術師と関係を絶つことを選択した。自分がついていけないことを悟って、〝一般人〟へと戻っていった。

 その選択は〝正しい〟と言える。自分には向かないと思った世界に背を向け、関係を絶つ。呪詛師に堕ちた夏油などより、よほど頭のいい選択だ(この頭の良さを七海自身がのちに否定するけれど)。

 二人の決断を分けたのは、諦めの良さなのだと思う。七海は諦め、逃げ出した。夏油は逃げ出せず、かといって不条理を飲み下せず、反転した。七海は挫折と相互不理解を知っていて、夏油は知らなかった、あるいは目を背けていたようにも見える。

 七海も夏油も真面目な性格をしているが、二人は真面目の方向性が違う。生まれてからずっと相互不理解と共にあった七海は、逃げ出すことを躊躇しなかった。真面目だから相手を否定せず、ただ、合わないと感じたら去るだけだ。きっと、今までそうしていたのだろう。それが七海の処世術だった。〝私〟と〝あなた〟は違う人間だから仕方がない、といった具合に。

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