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終戦記念日が近づくと思い出す母の言葉の話(もしくはわたしを生かすわたしの怒りについて)

世界がわたしに追いついたので、もう書いてもいいかなと思って書きます。
はじめに断っておきますが、わたしはわたしの感情をわたしと同じ属性を持つ人たちに一般化するつもりはありません。
これはわたしの抱いた感情の話です。

毎年8月になれば、沖縄戦から始まり、広島・長崎への原爆投下、そして終戦記念日のニュースが流れていく。
この一連の流れをわたしは何十回も経験し、そして毎度、母の言葉を思い出す。

小学生の時、母と沖縄へ旅行した。ツアーガイドに連れられてひめゆりの塔へ行った時のことだ。
「ではみなさん、黙祷しましょう」とツアーガイドの女性は言った。わたしは観光に来てまで説教臭いことを言われるのに釈然としなかったが、とりあえず目を閉じようとした。
その時、母はわたしの肩を固く抱いて引き寄せて、声を潜めてこう言った。――「日本人はうちの国の人をたくさん殺したからやめなさい」「被害者ぶってよくも」母の声には憎しみとよく似た何かがあった。

母はわたしに日本語を使わない。だからツアーガイドにはわからなかっただろう。わたしは目を開けたまま、黙祷する他の人たちを眺めた。なんて馬鹿馬鹿しい行事なのだろうと思った。
たかだか20年前かそこらの、まだポリコレやらダイバーシティといった概念が人口に膾炙する以前の話だ。

わたしたちの名前をツアーガイドは知っていたはずだ。明らかに日本人ではないどころか、わたしの名字は本国では非常に典型的で、出身国は容易に知れたはずだ。(本国では夫婦別姓のため、わたしは父と同じ名字であり、母は別姓である)
わたしたちは平等に日本人として扱われ、そしてそれゆえに、母の持つ歴史観が意識されることはなかった。

わたしは別に「日本人なんか死んで当然」と思っていない。戦争が愚かしいことも、戦争の悲惨さを否定するつもりもない。平和教育は大切なものだと思う。
黙祷でわたしは目を閉じても祈りはしないが、他者の祈りを妨げたいわけではない。

母もたぶん違う。日常生活において母はきわめて親日家だ。
母はさだまさしが好きだ。赤川次郎が好きだ。『男はつらいよ』が好きで、たまたま道端で監督に出くわして会話して帰ってきた時の興奮といったら!
沖縄旅行の10年近く後には「日本に骨を埋める」と言って父の反対を押し切って帰化した。その後に広島を旅行し、原爆ドームに行った時は核兵器の悲惨さを感じていた。
(ちなみにわたしは父と大げんかを繰り広げた末、母と一緒に帰化した)

だが、本国では反日教育が行われ、父も母もそれを受けてきた。旧日本兵は「鬼日本人」と呼ばれた。靖国神社に総理が参列するたび、両親はいたずらに両国の関係を悪くすることを厳しく批判した。
「沖縄(琉球)は中国だった」と言い、「琉球王国は独立国家だった」とわたしが授業で習ったことを言い返すと「日本が沖縄を領土にしたことを正当化するために日本ではそう教えるんだ」と父は言った。
8月のNHK特番で「東京裁判が事後法によるものだった」という趣旨の番組を見て、日本は人体実験した罪が加算されるべきだと母は怒った。母は番組の趣旨を何も理解しなかった。

そういったたぐいの小さな出来事の積み重ねを、8月になると思い出す。
テレビで体験した戦争の悲惨さを語る高齢者を見ると、「被害者ぶっている」と批判した母の声を思い出す。

母はおおむねリベラルで、帰化してからは必ず選挙に行く。本国の親戚に選挙に行ったことを自慢し、旅行する時には必ず期日前投票に行く。ゼロ票確認のことを教えたら、朝5時に起きて見に行き、興奮しながら写真をわたしに見せてきた。
だけど、共産党のやり口を批判しながらも、共産党の一党支配には必ずしも否定的ではない。天安門事件にもあまり否定的な見方をしない(ちなみにその日、ちょうど新婚旅行で北京にいたが、報道規制されていたため後で知ったらしい)。

母を批判しているのではない。そもそも、ひめゆりの塔で言ったことを忘れているかもしれない。当時はもっと普通に差別発言を浴びていたから、その反動もあったかもしれない。
わたしが感じるのは、埋めがたい断絶だ。終戦記念日が近づくと、自分が日本人ではないことを思い出す。
そして、親という生き物も欠点のあるただの人間であり、わたしと違う人間であることも。

わたしは日本人のふりが上手かった。名前を言うまで、誰もわたしの出身国には気づかない。顔もけっこう日本人と似ている。知り合った後は「日本人より日本語ができるね」とわたしを褒める。
彼らはわたしを日本人として承認するくせに、「なんで母語はできないの?」と無邪気に言う。わたしは日本人より日本語ができるだけでは足りず、なぜか母語能力を求められる。彼らが一言もできない言語を、わたしより日本語ができないくせにわたしに求める。

今でもわたしは部署内で「最も日本語ができる人」として扱われる。これまでの人生で幾度となく浴び続けたこの言葉を先日、上司にも言われた。
この表現がポリコレによる言論統制を生き延びたことにちょっと感動したくらいだ。
(わたしはライター・編集者をしているので、言語能力はとりわけ重視されるスキルである)

憎悪を抱くには彼らは悪意に欠け、彼らとわたしの頭上にそびえたつ「法の下の平等」は強固で、生活水準は高く、わたしは社会に絶望しなかった。
わたしは無償で保育園に通い、小学校の給食費を免除され、少なくとも就活までは日本人と同等に扱われた。
小中学校は公立、高校から大学院までは国立と、わたしは日本政府の税金で教育を受けてきた。この平等を両親は賞賛した。

わたしは己のアイデンティティを「国」に求めることをしなかった。わたしは一度たりとも生まれた国を「母国」だとか「祖国」だとか「故郷」だとか呼ばなかった。かといって日本にその呼称を与えたこともない。
アイデンティティに悩んだことはなかった。遠ざけていたのではない。わたしは早々に自分に「祖国がない」ことを結論づけた。

わたしは「ルーツ」という言葉が嫌いだ。「ルーツは大事にするべきだ」「母語は話せるべきだ」としたり顔で一方的に押し付けられるそれをわたしは激しく嫌悪した。わたしはルーツというものを自ら捨てた。それに耐えられるほどにはわたしの自我は強固で、わたしの精神は強靱だった。
わたしはずっと日本語母語話者相当であり、わたしの母語は別の言語のままだ。その現実を認識しても別にわたしは苦しくなかった。苦悩という言葉を使うには、わたしは強すぎた。

わたしが感じていたのは怒りだ。偽善者め、とわたしは心の中でののしり、その怒りを一人で見つめ、燃やし、生きてきた。
少女のわたしは何もかも嘘っぱちだと怒りを燃やし、世界に牙を剥き、そうしてまだわたしの心の片隅で息をしている。

わたしはわたしを焼く怒りを直視し続けても壊れないほどには頑健だった。
わたしは器用だから、普段はこの火を見ないで生きていける。むしろこの怒りを、少女のままのわたしを創作活動の原動力として活用してきた。

焼かれた心を栄養にして、わたしは書き続ける。
この感性が摩耗していないことを確かめるために、わたしは炎を燃やし、わたしを焼く。この感性がわたしと世界を切り分け、俯瞰する力を持っていることを確かめるために。

8月になると、この炎はとりわけよく燃える。


今になって書こうと思った直接のきっかけは、芥川賞を受賞した市川沙央さんのインタビュー記事を読んだからだ。
今まで誰にも話さなかった。両親にも友人にも同僚にも夫にも。言ったところで反応に困るだろうし、わたしはわたしとして生きるのに共感を必要としなかったからだ。
(さすがに市川沙央さんほど苦労したことはない)

障害者には物理の本は重すぎて持てない。なのに、電子書籍を出してほしいと出版社に要望を出しても無視された――本を読む人の中に障害者が想定されていないこと、本を読む当事者として扱われないことへの激しい怒りを読み、わたしは共感した。
疎外されることへの怒りが原動力となっているのはわたしも同じだからだ。わたしが日本人ではないことを認識しながら、都合良く認識を外してわたしに日本人であることを求める。あるいはその逆に、わたしを日本人として承認しておきながら、日本人には求められないことをわたしには求める。
「日本人は~」という言説はいつもわたしを除外する。少数派であっても決して珍しくないはずのわたしの属性はきれいに無視される。

わたしは自ら進んで日本人のふりをしている。それが最も生きやすいからであり、郷に入れば郷に従うのも礼儀だと思うからだ。状況に応じて使い分けるペルソナのひとつに過ぎず、どのペルソナもわたし自身である。
大学の社会言語学の授業でLabovの論文を教わり、「過剰修正」という概念を知る前から、わたしは自覚的にそう振る舞ってきた。
今でも嫌になるほどわたしの日本語の発音は正確で、そして「聞き取りやすい」と褒められる。
そして正しすぎる日本語を中学校の同級生に「変だよ」と言われた。

中学生の時、父の博論の資料を勝手にあさって読み、「サピア・ウォーフの仮説」を知った。言語によって見える世界が違うというその主張をバイリンガルは特別なのだと解釈して、わたしは「そんなわけがないだろう」と思いながら、疎外感の裏返しの優越感を得た。

英語音声学の授業の聞き取りテストでLとRを出題され、教室が阿鼻叫喚の騒ぎになる中、わたしは満点で静かに座っていた。帰国子女を除けば、満点だったのはわたしくらいだろう。友達はわたしを「すごいね」と褒めた。
わたしは何もすごくなかった。バイリンガルの典型的な特性として、わたしは抜群に音素の聞き分け能力が高く、コピーできる発音も非常に多かった。英語圏に滞在した経験がなくてもGeneral Americanの発音ならほぼすべて完璧にできるくらいに。
(音声学の先生はGAとRPを一年ごとに入れ替えて教えており、わたしの代はGAだった)

そして彼らは同じ舌で平然と「なんで母語ができないの?」と言った。


誰よりも正しくなければ、すぐに「出身国」のせいにされる。当時はまだ日本よりずっと劣っていた途上国だったから、「これだから○○人は」と言われるおそれがあった。
実際、中学の時に「国語じゃなくて日本語だろ」と言われた。彼はテストでわたしに一教科たりとも勝てなかったが、そうやってわたしを蔑んだ。学年トップのわたしを。

わたしはこんな奴には絶対に負けないと思った。こんな奴に負けるほど弱いわたしをわたしは認めなかった。
わたしはその怒りで今日まで走り続け、これからも走る。


わたしは『PSYCHO-PASS』の宜野座が好きだった。迫害される属性を持つがゆえに誰よりも正しく在りたい、在らねばならないという彼の人格形成の過程が手に取るようにわかった。
わたしは『ゴールデンカムイ』の有古力松/イポプテが好きだった。アイヌとか和人とか関係なく自分として生きていたいだけなのに、周囲が勝手に押し付けてくると言う彼の言葉を、わたしはずっと胸に抱いてきた。
わたしは『銀河英雄伝説』のシェーンコップが好きだった。国家というものへの帰属意識が希薄で、滅びてもいいと言い放つ彼の態度はまさにわたしだった。

わたしは生きづらさを感じたことはない。「生きづらい」と主張するにはわたしは器用で社会性と適応力が高く、うまく立ち回る能力を備えているからだ。
この孤独だって、言うほど特別ではない。誰もが孤独だ。真に自分を理解できる人が現れるなんて幻想に過ぎない。そんなことを期待するくらいなら自分で乗り越えた方が早い。

母はわたしを「特別」だと言った。普通の人はそんなことに気づかない、普通の人はそんなことまで覚えていない、普通の人はそんなことまで考えない、普通の人はそんな体験をしないからわからない――母は繰り返しわたしにそう言い聞かせ、わたしはそんなはずがないと思っていた。
わたしは「特別」でいたくなかった。わたしは「普通」になりたかった。そしてわたしは「普通」の振りがうまくなった。それでおおむね満足した。

だからわたしがこれを記したのは、わたしがとうの昔に乗り越えたこれらにつまづいている人の踏み台になるためだ。
数年前、わたしがとある作品で移民の扱いに激しく憤っていた時、わたしの書いた感想に「救われた」という趣旨のマシュマロが届いた。そのマシュマロによってわたしもまた「救い」を得た。わたしは孤独ではないことを知った。
これが誰かの救いになるかもしれない――わたしはそう思って、今になってこれを書いた。

この炎は8月を過ぎれば自然に鎮火する。毎年そうであり、今年も例外ではないだろう。

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